終章 生命を呼ぶ声


 あの雨の日の一件から、二ヶ月が経過した。夏の太陽は、足早にミルフィスの町を通り過ぎていった。

 ケーテは、捕縛したオリヴァーを中央魔術師審議会に送ると共に、間に合わせだったイェンの魔術師登録手続きをし、再びこの街に舞い戻って今も医師を続けている。当初こそ、街の人間には少し微妙な視線で見られもしたが、それも今はもうなく、ミルフィス唯一の、そして一番の頼れる医者として、少し忙しい時間を過ごしている。
 それでも、その忙しい時間の合間を縫って、必ず週に一度はイェンの家を訪ねてくるのが、彼女らしいと言えば彼女らしかった。曰く、「イェンの姿を見ないと落ち着かない」。その言葉に、イェンは苦笑をするしかなかった。

 フェリシテは、あの一件で街の人間との距離が縮まったと言っていた。幼き領主は相変わらず街の人間に可愛がられ、愛されていた。そして、街の人々はフェリシテの「頼れる」という側面も分かってくれたらしい。
 街の総会、いろいろな人間の悩みを聞いたり、援助をしたり。中央からの公務に加えて、街の人間との交流の機会も増やしたいと望んだ道の上、フェリシテも日々忙しなく動いているような毎日。
 そんな彼女を常にサポートしているのは、白髪の執事。彼女が公務の隙間にイェンのことを訪ねるときは、いつも彼がその公務を肩代わりしていた。優しく彼女を見つめるクリストファに、フェリシテは今まで以上に信頼を厚くしているらしい。

 あの日以来、街には雨が降っていない。

「街は……もういつも通りだな」
 晩夏の午後。部屋のカーテンを静かに開け、その遥か向こうに見える町並みを眺めながら、イェンは小さく呟いた。開いた窓から陽光が、そして最近少しずつ涼しくなってきた野の風が部屋に舞い込んで来る。
「今日も、いい天気だな……」
 眩しすぎるくらいの太陽を手でよけながら、部屋の中を振り返る。
「いい天気だ……リア」
 窓辺、すぐ風の通り道にベッドが置かれていた。そこに、静かに眠り続ける少女。呼吸もせず、目も開かず、ただそこに眠るだけのリアの姿。

 あの後、すぐにイェンの館でリアの治療を行った。ケーテと、フェリシテのサポートの下、リアは何とか死を免れた。コアの輝きは失わず、手足にも熱が戻った。
 しかし、それだけだった。
 コアは輝き、手足の先まで暖かくなり。ただ、それだけ。それからリアは今日まで、一度も目を覚まさず、指先一つ動かさなかった。
 悔い、詫びるケーテに、イェンは静かに首を振った。
「もう……充分だ。ありがとう、ケーテ……フェリシテ」
 言ったイェンはどんな顔だったろう。その言葉を聴いたケーテとフェリシテの顔は、しばらくイェンの頭にこびりついていた。

 その記憶も薄れ、ケーテもフェリシテもそれぞれ自分の道を歩いている中、イェンも徐々にいつもどおりに戻ってはいった。たまには散歩をし、街の人間とも話し、一人で生きると言うことを思い出していた。
 思えば、リアが生まれる前は、普通に彼がやっていたことだ。その状態に戻るだけのはずだった。
 しかし、ふとした瞬間に感じる寂しさ。ふと左を眺めて、その見晴らしのよさに思わずため息をついてしまう日もあった。久しぶりに紅茶を入れようとして、仕舞い場所が分からず困ったこともあった。一人で食べる食事は、味付けもリアより上手く手際もよくできたが、それでも美味しくはなかった。
「まったく……また塩の量を間違えたな?」
「え……あ、ちょっと……うわしょっぱ!? 誰ですかこれ作ったの!?」
「お前だ」
「はうー……」
 そんなやり取りをふと思い出してしまったりもした。

「もう……秋が近いな」
 すぐそこまで来ている次の季節に、イェンは目を細めた。次の季節も、またその次の季節も、こうやって過ごすのだろうか。リアの傍にいて、その目覚める日を待ちながら、ただすごしたこの夏。それと同じ季節を、過ごすというのだろうか。
 二ヶ月。あっという間だったが、長かった。イェンの心に溜まったものは、もう心を覆いつくさんばかり。
「自分の無力が……嫌に、なるな」
 ベッドの傍に置かれた椅子。そこに座り、ベッドの端に手をかけながら、ポツリと呟く。この二ヶ月、初めて漏れた弱音。
「なぜ……私を、置いていった……リア……」
 ぐっと、シーツを掴む。詮無いとは分かっている。しかし、疲弊した心は、一度溢れると止まらない。
「最後まで……私を困らせて、くれて……」
 イェンの口から、言葉が漏れ続ける。リアが眠るベッド、そのシーツをぎゅっと握り。
「いや……もっと、困らせてくれてもよかった……それでも、お前との時間は、心地よかったんだ……!」
 限界に来ていた。心は、折れる寸前だった。一縷の望みにかけただけの、頼りない人生。その反動を一身に受けた心が、悲鳴を上げていた。
 イェンは、震えながら、ベッドに突っ伏した。
「頼む……目を、覚ましてくれ……リア。……愛して、いるんだ……!」
 祈るように、縋るように、言葉を吐いた。

 その手に、触れるものがあった。

「……っ!?」
 イェンは、顔を上げた。そこに。
「リ……ア……?」
 微笑んで、身を起こした彼女の姿。イェンの手を取り、こちらを見ている。
「リア……どう、して……?」
 呆然と言うイェン。その言葉に、微笑んだリアのその瞳から、一滴の涙が零れる。その涙を拭いながら、口を開く少女。
「もう……ケーテさんの、言うとおり。イェン様、肝心な所で……鈍い、ですよ……っ」
 笑いながら、泣きながら。リアは自分の胸を押さえる。その奥に眠るコアの温もりを、確かめるように。
「私が……刺されて。一旦、このコアは、機能を停止したんです……保留、状態で……機能が、ものすごく、制限されて……そしたら、私の、ホムンクルスのベース……ヒトの命令で、動く……それ、しか……できなくて……マスターに、しか……解除できなくて……」
「……なん、だと……?」
 イェンも知らない情報。思わず、きょとんとしてしまう。恐らくは、リア・オーリックの作ったほんのいたずら。あるいは、リア・オーリックは、こうなることを予期していたのかもしれない。
「『目覚めてくれ』……命令、実行しました……マスター……イェン、様……っ!」
 言ったそのリアの、赤い瞳から。次から次へ落ちる涙。
 リアが、イェンの胸に、飛び込んできた。
「待ってました……私、ずっと……イェン様の、命令……待ってたん、ですから……っ」
 イェンの胸に顔を埋めて、泣きながら言うリア。その腕が、イェンの背中をがっちり掴んで離さない。ぎゅっと、ずっと抱きしめる。
「やっと……やっと、ここに……イェン様の、腕の中に……戻って、来ました……暖かい、大好きな……イェン様の、腕の、中に……っ!」
 ぐしぐしと、胸に自分の涙をこすりつける。イェンの服が、しっとりと湿ってくる。イェンも、リアを抱きしめた。ようやく、この手の中に戻ってきた温もり。自分から、遠回りをしてしまった温もりを、離さないように。
「リア……愛して、いるぞ……」
「はい……っ! はい、イェン様……っ! 私も……私も、愛してます……っ!」
 涙に濡れたまま、頬を染め、満面の笑顔をこちらに向けるリア。
「私……これからも、イェン様の……イェン様の命令を聞き、イェン様に仕えて……いいんです、よね……?」
 その言葉に、イェンはしばし考えた。静かに、口を開く。
「そう……だな、最後の『命令』だ」
「……え?」
 最後、という言葉に、リアの目が驚きに、そして不安に揺れる。その顔を見て、イェンはふっと笑った。
「最後の『命令』。そして……最初の『約束』だ。リア……ずっと、私の傍に……いてくれ」
 命令は、ホムンクルスに。約束は、一人のリアという少女に。
「いいな、リア?」
 イェンは、笑った。リアも……満面の笑みで応える。
「……はい、『約束』です……っ!」
 言って、静かに目を閉じるリア。今度こそ、気の迷いではない。勢いではない。リアの求めるもの、そしてイェンの与えるものは、一つ。
 イェンは、リアのその唇に、静かに自分の唇を重ねた。


Mercurius -The Rhyme of Life-

fin.


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