第七章 雨に消えた灯火


 捕縛されるオリヴァーを横目に、フェリシテはかつかつとイェンに近寄る。その横に立つケーテを見つめ、にこりと笑った。
「これで、よろしいんですね?」
「……上等よ、フェリシテ」
 ケーテもにっと笑ってそれに応える。おそらくは、事前の打ち合わせなど何もなかったのだろう。
 とたとたと駆け寄ってきたリアを合わせ、自分の目の前に集まった三人の女性を見渡し、イェンはふっと苦笑した。
「まったく……参ったよ、お前たちには」
 イェンの言葉に、フェリシテは優しく、ケーテは満足げに、そしてリアは少し照れながら笑う。やれやれともう一度苦笑を浮かべ、イェンは肩をすくめた。
「しかし……ケーテには驚かされたな」
「ま、驚いてもらわなきゃここまでやった甲斐もないわ」
 頭を掻きながら告げるイェンに、悪戯っぽく笑うケーテ。
 彼女が今まで通ってきた道は、そうやって笑ってしまえる程度のものではなかっただろうことはイェンにも感じられたが、それでも笑っているケーテ。そんな笑顔に彼はただ肩をすくめるばかりだ。
「複数人を装ったのもそうか」
「単純だけどね、でもあなたを足止めはできたでしょう?」
 ふふ、と笑いながら言って、ちらりとオリヴァーのほうに目を遣る。
「彼に、行動を起こさせなくちゃいけなかったからね。行動を起こさせたその上で、オリヴァー……というよりルランディアの追討派ね……それを追い落とすつもりだったの。その前にイェンに動かれたら困るから、いろいろ画策はさせてもらったわ」
「もう、街一個巻き込んでるんですからね?」
 ケーテの言葉に、ぷ、とフェリシテが膨れながら言う。冗談めかしたフェリシテに、ケーテは笑いながら「ごめんなさいね」と頭を下げる。そんな二人の様子は、昔からの友人のようでもあり、一番気の合わない他人のようでもあった。仲が良いのか悪いのか、とイェンは苦笑がちに考える。
 考えながら、ぱんぱんとズボンについた汚れを落とそうとして、ふと気づく。そも、自分のズボンが汚れた原因となった人物。
「ああ、そうだ。怪我はないか?」
 イェンはぽん、とその人物の肩を叩く。金髪のその少女は「ひゃい!?」と肩を跳ねさせたが、イェンの顔を見ると少し安堵したように顔の緊張を解く。
「はい、あの、イェン様が無事なら……その、よかったです」
 頬を少し朱に染めながら、嬉しそうなリア。
「ほんとほんと、リアちゃんが怪我してたらホントどうしようかと思っちゃったよー」
 なんてことを言いながら、リアに抱きつきすりすりと大事そうに頬ずりをするのは、緑の髪の女。もう慣れたものなのか、リアも少し驚きながらも為すがままになっている。
「そうね、私もそれは驚いたわ……あそこで、リアちゃんが飛び出してくるなんて」
 ケーテも笑いながらリアを見る。フェリシテも、ロシェルも、街の人間も。周りの視線を一身に集め、リアは少し縮こまるようにして、目でイェンに助けを求める。イェンは笑いながら肩をすくめた。
「そうだな。お前に、助けられたのだなリア。……ありがとう」
「え、あっ……え、えと……その、あの、えっと……」
 優しく笑って言うイェンに、リアは目を逸らしたり合わせたりしながら口の中で返事をする。意味もなく、きょろきょろと辺りを見回したり、頬を微かに桜色に染めたり。
 そうやってきょろきょろしてるリアに、ケーテもフェリシテも苦笑を浮かべるしかない。
「まったく……今このときに限ってあなたとは気が合いそうなのだけど、どうかしら? フェリシテ?」
「そうですね……この件に関しては仲良くなれるかもしれません」
 こそりと意思を交し合う二人にはイェンもリアも気づかない。
 リアは照れ、ケーテは静かに、フェリシテは優しげに、ロシェルは明るく。久々に見たような光景に、イェンはようやく心の緊張が解けたように安堵した。街の人間も、ようやく戻ってきた日常にそれぞれ足を向けようとする。
 そんな日常は、すぐに壊された。
「く、くああぁぁっ!?」
 突如上がった悲鳴に、全員の視線がそちらを向く。そこには、肩を押さえてその場に蹲る男の姿。左手を手首から肩まで浅く薙がれ、ぽつりぽつりと地面に赤を垂らしていく。
 ゆらりと、その隣に立つ人影が動いた。
「貴様……そのホムンクルスの名前を、なんと言った……?」
 いつの間に手に仕込んでいたのか、ナイフを握り締めながら、そこに立つ人間。その状況の変化に唖然とするイェンに、オリヴァーはもう一度叫ぶように言う。
「そのホムンクルスを何と言うッ!? 答えろ……イェン・オーリック……ッ!」
 血走った目、禍々しく光るナイフ。地に落ちた縄は、ちょうどオリヴァーの目の前で二つに断たれている。揺れる切っ先に、その場の空気が一気に冷たくなった感じを覚えた。
「な……何よ、リアちゃんに何かしたら、私が許さないからね……!」
 ぎゅっとリアを抱きながら、威嚇するようにオリヴァーを睨むロシェル。そのオリヴァーが、突然がくりと頭を下げた。
「リア……リア、だと……?」
 静かに肩が震える。ナイフを持つ手が、ぎりぎりと乾いた音を立てる。皆が黙って見守る中、その沈黙を内から破るような空気の震えがあった。
「くく……くくくく……」
 オリヴァーの肩がゆっくり大きな震えになってくる。その声に混じる、愉悦。
「くははぁ……はーっはっはっはっはっはっはっはっはっはァ……ッ!!」
 高笑いが、町の中央広場に響く。ただ、周りは呆然とそれを見ているしかない。
「リア! リアだと!? くははーっはっはッ! これは驚きだ……本当に驚きだな、イェン・オーリック……驚きだなァ、イェン・オーリック……ッ!!」
 びっと、切っ先がイェンに向けられる。その次の瞬間。
「……ふざ……っけるなァァァっ!!」

 ひゅんっ……!

「ぐっ……!?」
 叫びと共に、空を切る音。そして、イェンの左足に感じた衝撃。イェンは思わず、膝に突き立ったナイフを押さえ、その場でよろめいてしまう。じわじわと、膝に降りてくる鈍い熱。どぐん、どぐんと早鐘のように痛みが湧き上がった。
 呆気にとられたまま、誰も動くことができない。
「オォォォォォォォォッ!!」
 吼え猛ると同時、オリヴァーは走る。その先には。
「ひゃあっ!?」
「くっ、オリヴァー……っ!」
 がっと襟を掴まれ、高い声を上げるリア。イェンはあわてて手を伸ばすが、それより先にリアの喉元に突きつけられる、もう一本のナイフ。
「くくく……くっくっくっくっくっく……イェン・オーリック。イェン・オーリックぅぅぅぅっ!!」
 叫び、吼え、オリヴァーは笑う。ひとしきり笑った後、がっと鋭い瞳でイェンを睨むオリヴァー。
「貴様は、リアさんの命を奪っただけでなく……リアさんの存在すらも奪うのかッ! 貴様……貴様、貴様ァ!」
「っ……」
 イェンに向かって言いながら、オリヴァーはぐい、と自分の方へリアを引き寄せる。ナイフの切っ先がリアの眼前を危なげに揺れる。
「イェン・オーリック……貴様が、俺から奪うというのならば……貴様の大事な。貴様がリアさんから奪い作り上げたもの……それを、俺はどうすればいい?」
 目をかっと見開き、にぃぃ、と口元を歪めながら問うオリヴァー。問いながら、じり、じりと後ろに下がっていく。イェンは追えない。ナイフに貫かれた左足をかばうように地にうずくまりながら、オリヴァーを見る。
 イェンと、オリヴァー。二人の距離が徐々に開く。
「くく……何もできまい……何もできまいなァ!! はぁーっはっはっはっはっはっはっはァ!」
 もう一度高らかに笑うと。
「い、イェンさ……っ!」
 イェンに手を伸ばすリアをぐいと引っ張りながら、オリヴァーは走った。抵抗できぬ人の輪を切り分けるように、リアを連れて遠くへ。
「くっ……リア……っ!!」
 そこまできて、ようやくイェンの体が動くようになる。迷うことなく、オリヴァーを追い、イェンは走り出した。


 左足がじくりと痛んだ。少しずつ朱に染まるズボンを見ながら、イェンは走った。
「く……っ」
 幾度となく、痛む左足を取られそうになり、その度に体ががくりと危なげに沈む。それをなんとか踏ん張り、息を吐く。
「イェン……!」
 それを追うように走り付いてくるケーテ。それを振り返り、そこにケーテがいることを確認して、イェンは再び視線を前に戻す。はるかに遠いが、それでも何とか見えるオリヴァーの背中。
「待て……オリヴァー……っ!」
 届こうはずもないが、イェンは叫ぶ。足は止めない。いつの間に降り始めたのか、冷たい雫が顔を濡らすが、それも気にせず。目にまとわりつく前髪を鬱陶しく振り払い、走った。
「……っはぁ……っ!」
 口から漏れる息が熱い。それを飲み込むようにただ走る。体を打つ冷たさと、足が、肺が捻り出す熱が、相反する温度がイェンにのしかかる。左足の傷が、じわりじわりと赤を吐き出し続ける。目に映る赤が、イェンの頭を侵食する。視界の中心から端へ、赤が広がっていく。
 ついに、がくりと体を崩し、膝を突いてしまう。
「イェンっ!?」
 隣を走っていたケーテが慌ててかがみこみ、イェンを気遣う。ぽつぽつと、イェンの頭を打つ雨。その感覚に、イェンはかっと目を見開く。
(ち……こんなところで、転んでいる暇は……っ!)
 立ち上がろうとするイェンの肩に、ケーテの手が乗った。
「待って、イェン」
「待てん!」
 その手を振り払って、イェンは立ち上がる。押され、よろけるケーテ。
「く……こうしている間にも、リアが……!」
 きっと丘の上を見るイェン。また走り出そうとした刹那。

 ぱんっ……!

 短く鋭い音が、響いた。次いで、雨のさーさーと地面に落ちる音。イェンは、突如熱を帯びた自分の頬を押さえ、狼狽した。
 振りぬいた平手を静かに下ろし、ケーテは静かに笑った。
「目、覚めたかしら?」
「……ケーテ」
 呆然と、その名を呼ぶ。ケーテはふっとため息をつくと、イェンの前に跪いた。イェンの足をじっと見つめ、言う。
「こんなに血を出しちゃ、オリヴァーたちに追いつく前に倒れてしまうわ。それに、痛みも気になるでしょう?」
「しかし……私は……!」
「一分!」
 イェンの言葉を、ケーテの凛とした声が遮った。イェンは気圧され、口をつぐむ。
「……一分、時間を頂戴。……お願い」
 こちらを見つめ、そう告げるケーテに、イェンは何も言えなかった。その沈黙を肯定と受け取ったか、ケーテはもう一度イェンの傷に目を向け、懐から何かを取り出す。
「本当は、こういうことしちゃ、いけないんだ、けどねっ」
 イェンの腿に、狙いを定めた注射を打ち込む。ちくりとした痛みに、イェンは一瞬顔をしかめた。ケーテは静かに注射を抜くと、その刺した口をハンカチでぬぐう。
「何を……?」
「ん、痛み止め。本当は安静が前提だから、使いたくないんだけどね……っと、後は、この血ね……」
 赤く染まるズボンを見つめ、しばし考えるケーテ。そして自分のスカートに手をかける。

 びぃっ……!

 迷うことなく、スカートを引き裂く。ケーテの健康的な足のラインが露になった。しかし、そんなことを気にすることもなく、布切れをイェンの腿に巻きつける。
 ぎゅっと、引っ張る。
「……いたっ……!」
 本来ならばイェンが言うであろう言葉が、ケーテの口から漏れた。イェンが慌てて見ると、肩を抑えるケーテの姿。ケーテは、すぐにまた作業を開始するが、その顔には少しだけ苦痛の表情が浮かんでいる。
「お前……肩、を……?」
「……狂言強盗のとき、ね。あの時、レンガを直撃させたから……その、後遺症……っと」
 淡々と告白しながら、布切れをぎゅっと結ぶ。ようやく麻酔が効き始めたのか、そこに布があるのは分かるが何も感じない。
「本当に、やったのか……」
「半端な気持ちでは、イェンを騙せなかったから……私自身が、あなたを騙してのうのうとしていることに耐えられなかったからね」
 ふっと苦笑しながら立ち上がるケーテ。それに、イェンはかける言葉を失った。真っ白に近い頭から言葉を捜しているイェンに、ケーテは静かに首を振る。
「いいわ、あなたが分かってくれるなら、それ以上はいらない。だから……」
 言って、丘の上に目を向ける。つられて、イェンもそちらを見た。遠く、しかし気づけばそこまで離れてもいないオリヴァーの背。先刻までの距離は、焦りが生んだ幻か。
「リアちゃんを、追いましょう」
「……」
 口の端まで出掛かった「すまない」を飲み込み、イェンはその言葉に頷いた。

 オリヴァーに引き摺られながら、リアは自分を引く手を見つめていた。雨に打たれ、水を吸った魔術師の正装を重そうにはためかせ、自分の手を引く男。
「く……そっ! くそ、くそっ……! イェン・オーリックめ……あの、罪人が……っ!」
 ナイフを握り締めながら走るオリヴァー。その目は血走り、口からは呪詛とも愚痴とも嘲りとも取れぬ呟きが漏れるばかり。
 リアは思う。
(……寂しい、人)
 自分の手を引くこの男の気持ちも、何となく、言葉にならないが、分かる気もした。リアは、手を引かれるまま素直に走り付いていた。
(この人も……寂しい人)
 自分の心を占める人が、自分の思うようにならないもどかしさ。自分以外の人間の方に目を向けてしまう辛さ。そして、その先に生まれる……目を向けられた誰かに対して抱く、静かに蠢くような感情。
 リアにも、分かる気がした。
「くそ……っ! リア……だと!? リア……リア? リアだとぉ……っ!」
「きゃっ……」
 睨まれ、突き飛ばされる。リアは、思わずよろけて地面に躓く。濡れた地面に、スカートがじっとりと冷たくなる感覚。
「赦さん……赦さんぞ……俺は、赦さんぞぉ……っ!」
 ぎり、と歯を噛みしめ、ぎらりとした目が向けられた。ぶるぶると、ナイフを握る手が怒りに、憎しみに震えている。
「オリヴァー……さん」
 しかし、ここに及んでなお、リアの心に怯えや恐れはなく、ただ目の前の男に寂しさを感じていた。自らの鏡のようなこの男に、自分自身の影に、ただ寂しく、悲しい瞳を向けるだけ。
「く……貴様は、貴様まで俺をバカにするか……っ!」
 ぎりと、オリヴァーの歯が鳴る。その手が持ち上がり、銀に光る切っ先がリアに狙いを定める。それでも、リアは動かない。
(似ている……オリヴァーさんは、きっと、私と似ている……でも)
 明確な違いも一方で、確実にある。
「く……何故だ、何故貴様は……何故貴様も、怯えない……っ! 臆さない……っ!? この刃が貴様を切り裂く……そのことを分からないのか……っ!」
 吐き出すように言うオリヴァー。その心は、恐らく黒く深く根差す負の感情に弄ばれている。
 リアと、オリヴァー。似た二人の、明確な違い。
 リアの心を、魂を侵食し、飲み込もうとする黒い感情を、吹き消すような光がある。
「私は……イェン様が、来てくれると。……信じているから」
 静かに、自分に言い聞かせるように、そして自分の影に言い聞かせるように言うリア。自分の心の中を照らす、小さな、でも確かにある光を信じて。ただ、それだけを愚直に信じて、リアは言った。
「貴様……貴様……っ!」
 ぐっと、オリヴァーの手に力がこもる。振り下ろさんとするオリヴァー。
「……あっ……」
 リアが、声を上げる。その目は、オリヴァーを見ていない。オリヴァーの後ろ、その背中の先を見つめる赤い瞳に、オリヴァーも後ろを振り向く。
 にぃ、とオリヴァーの口の端が持ち上がった。ぐっとリアの腕を掴み、引き寄せながらその先にいた者を睨む。
「……オリヴァー」
「来たか、イェン・オーリック」
 雨の中、二人……イェンとオリヴァーは、対峙した。誰も、何も喋らない。
 ただ空から降る雨だけが、少しずつ激しさを増していった。


「く……くくく……」
 オリヴァーは顔を押さえ、俯いて肩を震わせる。歪んだ口元から耐えることなく漏れる笑い。ぎり、とリアの腕を掴む手が強く食い込む。
「っ……!」
 リアは顔をしかめるが、そんなことはオリヴァーには関係ない。彼はただ笑いながら、目の前に立つ男を見るだけだ。
「くく……本当に来るとはな……よほどお気に入りらしいな、この女が! この人形が! この、人の形をした偽者(フェイク)がなァ! く、くぁははは……はぁっはっはっはァ……ッ!」
 言って、リアに目を向ける。先ほどとは同じようで少し違う目。どろりと瞳が濁り、ねっとりとした敵意、悪意がリアに絡みついた。イェンの姿を映した瞬間に曇り、濁った瞳で、リアをねめつける。
「オリヴァー……リアを離せ」
 イェンが静かに言ったその言葉に、オリヴァーの眉が跳ね上がり、ぎろりと細い目がそちらに向けられた。しばしイェンを見、そしてオリヴァーは再び笑う。ただ笑う。
「くくく……突然、何を言い出すかと思えば……貴様はまだ、自分の立場が分かっていないようだな……く、っくっくっく……冗談だとするなら、上出来だな、イェン・オーリック?」
 ぐいと、リアの体を自分に引き寄せ、その喉元に突きつけたナイフを少し動かすオリヴァー。ぴたりと、刃がリアの首に触れる。
「く、オリヴァー……っ! リアを、離して……くれ」
「くっくっく……いい表情だ、イェン・オーリック……初めて、謙虚になったな。俺は嬉しいぞ……先輩として、嬉しく思うぞイェン・オーリック……くく、くっくっくっく……」
 満足そうに笑うオリヴァー。そのナイフを持った右手が動く。

 すとっ……!

「くっ……!?」
 手先だけで投げたナイフが、正確にイェンの右腕を刺す。イェンは小さくうめき、その部分を押さえて体を崩す。
「イェン様っ!?」
「動くな、フェイク!」
 身を乗り出してイェンを気遣うリア。それをオリヴァーは忌々しげにぐいと引っ張る。そのまま顎で、うずくまるイェンを示した。雨の中、膝を地につきうずくまるイェン。
「貴様が来ると信じていたあの男は、あのとおりだ。……くく、確かに来たな。確かに来たが……ふっ、くくくく……何も! 何もできないではないか! 貴様の信じたイェン・オーリックは、何もできないではないか! 来たぞ、イェン・オーリックは来た! さぁ、どうする? イェン・オーリックが来て、そしてどうする? ……くっくっくっくっく……はぁっはっは……はぁーっはっはっはっはっはァァ……ッ!!」
 勝ち誇るように叫び笑うオリヴァーの声など聞こえないように、リアは今にも泣き出しそうな顔でイェンを見る。傍らに駆け寄りその傷を気遣うケーテに支えられ、イェンは再び立ち上がった。
「リアを……返してくれ、オリヴァー」
「ふ……まだ、言うかッ……!」

 ずぎっ……!

 オリヴァーは顔をゆがめながら、もう一本のナイフを投げる。懐に何本も入っているらしい投擲用のナイフは今度はイェンの左肩を貫く。それに無言で耐え、しかし顔は顰めずにいられないイェン。
「イェン様ぁっ! 離して、離してくださいっ!」
 リアがオリヴァーの腕の中で暴れる。金の髪が左右に振れ、そこについた水滴があたりに散った。身を前に乗り出し、イェンに手を伸ばす。
 オリヴァーはそれをがっちりと離さない。ほとんど焦点の定まっていない淀んだ瞳がリアを射抜く。
「逃がさん……ここで何もできず、ただ目の前の男が俺の憎しみとリアさんの無念の前にぼろぼろになっていく様を見ているのが、貴様の役目だ……! ……そして」
 にやりとその目が細くなる。
「そして……彼奴が動けなくなったときに、貴様にはイェン・オーリックに与える絶望として、しっかり働いてもらうのだからなぁ……っはぁっはっはっはっはっはぁ……!」
 荒い息を吐き、頬を高潮させながらオリヴァーは言う。
「狂ってる……」
 ケーテが、驚愕した表情で呟く。イェンを庇うようにその前に立ちながら、初めて彼女はオリヴァーを畏れている。そんなケーテの様子に、オリヴァーは愉快そうに頷いた。
「狂っている……ああ、狂っているのかもしれんなァ……俺は、狂っているか……! 狂っているのか! 狂わせたのは誰だ? 俺を狂わせたのはいったい誰だと思っているッ!?」
 吐き捨てるように叫びながら、オリヴァーはイェンめがけ、あるいはケーテ目掛けて第三撃をその手から放った。飛来するナイフに、しかしケーテの体は動かなかった。イェンの前に立ち、オリヴァーを畏れながらも、その体をどけてナイフを避けようとはしない。

 キィン……っ。

 響いたのは、肉を貫く音ではなく、乾いた金属の音。全員が、一瞬何が起こったのか分からなかった。
「意外と……上手くいくものですね」
 イェンのさらに後方から、声が聞こえた。全員の視線がそちらを向く。そこには、一つの小さな人影。
「貴様……領主……!」
「フェリ、シテ……?」
 図らずも、イェンとオリヴァーの声が重なる。その二つの声に応えるように頷きながら、ゆっくりこちらに歩み寄ってくるフェリシテ。その手に構えられた、一張りの弓。矢を番え、その先をオリヴァーに向けたまま、フェリシテは優雅に一度にこりと笑った。
「貴様ぁ……その男は罪人だ、人として犯してはならないことを為した咎人だぞ!? 何故だ……何故庇うっ!」
 吼え猛るオリヴァーに、フェリシテは笑みを消して目を向ける。
「……私は、領主です。領民を護るのは、当然です」
 きっぱりと言う。そこに一切の遅滞も逡巡もなく。凛とした声で、フェリシテは言った。オリヴァーの口が開き、何かを言い返そうとしたそのタイミングで、被せるようにもう一度フェリシテの声。
「それに……」
 一瞬そこで言葉が切れ、フェリシテの弓が僅かに震えた。少しだけ俯いた顔を、次の瞬間にはきっと上げて。
「好きな人を護りたいと思う気持ちに、理由がいりますか!」
 降りしきる雨に負けないように、しっかりと。きっと前を見つめ、フェリシテは叫んだ。
 その言葉に、一番驚いた表情を浮かべたのは、イェン本人だった。
「……フェリシテ……?」
 半ば呆然としたままその名を呼ぶイェンに、フェリシテはふっと苦笑を浮かべた。
「本当は、こんな風に言いたい言葉じゃなかったんですけど……でも……そういうことです。ふふ、驚きました?」
 弓を引き絞りながら、狙いをオリヴァーの手元に定めながら。そんなフェリシテに、イェンはただ呆然と頷くだけ。
 フェリシテは、再びオリヴァーに視線を戻す。
「貴方がそれをイェンさんに放った瞬間、私はこの矢を貴方に放ちます。貴方のナイフは、きっとケーテさんが叩き落してくれるでしょう」
 その言葉に、ケーテは腕を組んで苦笑する。
「無茶言ってくれるわね、この小さい領主様は」
「やっていただけるでしょう?」
「……上等よ」
 笑いながら、世間話のように言い合う二人。オリヴァーは歯噛みしながら一歩下がる。下がったところで、フェリシテの矢は届き、ただ自分のナイフが届きにくい状況になるだけ。それにも関わらずオリヴァーは下がる。一種の錯乱状態。
「ぐ……くっ……貴様……貴様……ッ!」
 憎々しげに、フェリシテを、ケーテを。そしてリアを、イェンを睨むオリヴァー。しかし、彼は突然その表情を笑いに変える。
「ふ……ふっ……くっくっく……」
 突如笑い出したオリヴァーに、その場の全員が怪訝な顔になる。オリヴァーは愉快そうに笑いながら、ナイフを握る。
「確かにな……確かに、このナイフをイェン・オーリックに放てば……俺は何もすることかなわず屈するだろうがな……くっくっくっく……」
 最初、オリヴァーが何を言っているか、誰も理解できなかった。
「だが……そこの領主でも、「これ」は、止められんだろう……くっくっく……」
 言って、オリヴァーはその手に持ったナイフをうえに振りかざす。そこで、ようやくイェンは悟る。
「よせ……やめろオリヴァー……っ!!」
 言いながら駆け出すイェン。ケーテが、フェリシテがようやく気づく。オリヴァーの意図に。気づいた瞬間に、フェリシテは矢を放っていた。
 一番最後まで気づけなかったのはリアだった。彼女が、オリヴァーの意図を理解したのは。フェリシテの矢にオリヴァーの腕が貫かれ、弾かれて。

 ただ自分の胸に突き立てられ、残されたナイフを見たときだった。


「へ……あれ……?」
 びっくりした顔のまま、リアは胸に突き立ったナイフを見つめた。根元近くまで体にめり込んだ刃、そこに体の熱が吸い取られるかのように、体が急激に熱を失っていった。
(あ、手が外れてる……)
 オリヴァーの手から解放されたことを確認し、何処となく呆けた頭のまま、辺りを見回した。
(えっと……行かなきゃ、イェン様の……ところ)
 自分の背後に崩れ、燃え尽きたように笑いを漏らし続けるオリヴァーを尻目に、リアは一歩踏み出す。その足が、ぐらりと崩れた。
「は、れ……?」
「リア……っ!!」
 前に倒れようとするリアの体に、ぐっと触れる手があった。地に倒れ伏す直前、イェンの手によって、なんとか助け起こされる。心配そうにこちらを見つめるイェンの顔と、リアの瞳が交錯する。リアは、言った。
「イェン様……お怪我、大丈夫、ですか……?」
 いつもより動かしにくい腕を持ち上げて、イェンの腕に触れる。感覚がないのが、残念だった。熱を完全に失った手には、イェンの肌の温もりも感じられなかった。
「ああ……リア……」
 その手を取り、イェンはリアの顔を覗き込む。大丈夫だと応えるように、自分の無事をリアに知らせるように。その言葉に、リアは微笑む。
「よかった……です」
 心底、そう思う。リアは、震える手でイェンの指に己の指を絡め、強く握る。笑顔で、イェンの顔を見つめ続ける。
 イェンは、そんなリアを見つめ続けられず、視線を横にずらす。
「くく……くくく……」
 そこには、糸が切れたように笑い続けるオリヴァーの姿。ケーテとフェリシテが傍に控え、しかしそれ以上何もアクションが起こせずにいる中、雨に打たれながら、ただ肩を震わせ笑うオリヴァー。
 イェンは、オリヴァーに口を開こうとした。しかし。

 くい……っ。

 その手が、静かに引っ張られた。思わず言葉を飲み込み、その引いた相手に目を向ける。リアは静かに首を振った。
「イェン様……オリヴァーさんを、憎まないで……ください」
 その言葉に、誰もがはっと息を呑んだ。イェンも、ケーテも、フェリシテも。そして、オリヴァーも目を見開く。
 リアは、静かに言葉を続けた。イェンの手を握りながら。
「私にも……オリヴァーさんの、気持ち……分かる気がするんです。きっと……リアさんが死んで……イェン様も、苦しかった……でも、オリヴァーさんも……苦しかったんだって……そう、思うんです。苦しくて……苦しくて……壊れたくなるくらい、苦しくて……」
「……リア」
「……」
 リアの言葉に、二人とも何も言えない。聞こえるのは、雨の音。
「自分の想いが通じなくて……その行き場のない想いを、そっちに向けて……そのまま、失ってしまって……それは、きっとすごく……苦しかった」
 今度は、ケーテとフェリシテが、言葉を失った。視線を一瞬イェンに向け、すぐに俯く二人。四人が、誰も何も言えない。誰もが、見透かされたようにただじっと雨の中、リアの言葉を待った。
「だから……オリヴァーさん」
 イェンに縋るように身を起こしながら、リアはまっすぐにオリヴァーを見る。微笑みながら、言った。
「もう……終わりに、しましょう? リアさんが……イェン様を、憎んでいなかった……それは、オリヴァーさんも……きっと分かっていること、でしょう?」
「俺……は……」
 オリヴァーの体が硬直する。リアに見つめられ、その目を逸らせず、固まってしまう。濁っていた瞳、焦点の合わなかった目に、雫がせり上がる。何かを言おうと口を開き、しかし何も言えず。オリヴァーはがくりとうな垂れた。
 懐を探り出す。そのオリヴァーに、ケーテとフェリシテはびくりと体を緊張させた。だが、次の瞬間オリヴァーがしたことは。

 からん、から、から、からん……。

 懐から次々にナイフを取り出し、地面に落としていく。力なく、緩慢な動作で。自らの懐に隠し持つナイフを、地に放つ。
 その様子に、リアは安堵したように微笑んだ。その体が、一度びくりと跳ねる。
「ふっ……!」
「り、リアっ!?」
 再び崩れるリアの体を抱き止め、イェンはリアの名を呼んだ。その声に、リアはにこりと笑顔で応える。
「イェン様……」
「リア……っ!」
 微笑み、イェンの顔を撫でるリア。自分の体の中が、胸の奥の灯火が、少しずつ弱くなっているのを、リアは感じていた。一つ弱くなるたびに、手から、足から、熱と感覚が抜けていく。
(胸の奥……私の、命……)
 灯火の名は、命。彼女の胸の奥に静かに息衝く、紅玉。
 リアは、きゅっとイェンの袖をその手で掴む。心配そうにリアを見つめるイェンに、リアは微笑んだ。
「イェン様……私、生まれてきて……よかったです」
「……突然何を言うんだ、リア……?」
 イェンは虚をつかれたようにきょとんとする。その顔にもう一度手を這わせる。
「笑って、ください……イェン、様……私、イェン様が、笑ってる方が……いいです」
「あ……ああ……」
 雨で張り付いた前髪で、上手く前が見えないながら、イェンは何とか口の端を持ち上げてみる。笑顔としては、落第点の顔だった。それでも、リアは満足そうに笑った。
「……そう、です。……私、イェン様が笑ってるのが……好きです。イェン様が怒ってるのも、むくれているのも……好きだけど。やっぱり……笑ってるのが、一番……好き、です……」
 少し、リアの声が小さくなった。イェンは眩暈を覚える。こんなに近くで抱きとめているのに、リアがどんどん遠くへ行ってしまうような感覚。
「リア……リア……っ!?」
 ぐっと、それを離さないように、引き寄せるように、リアの体を抱く手を強くする。リアは、優しい笑顔のままじっとイェンを見つめていた。
「私……イェン様が、好き……です。きっと、ずっと……イェン様が私を、作ってくれたときから……私が、この世界に生まれてから、ずっと……イェン様のことが……好き、です……聞こえ、ます、か……?」
「あ、ああ……ああ……!」
 霞むリアの声に、聞こえている、とイェンは頷く。リアが、イェンに手を伸ばす。その姿に、イェンの頭がかっと白くなった。脳裏に蘇る、遠い日の記憶。
 手の中で、だんだんと冷たく、硬くなっていく身体。微笑みながら、伸ばされた手。
 イェンは、知らず知らずに涙をその目から流していた。冷たくなるリアの身体をしっかりと抱きしめ、その口から自分に向けられる言葉を聴く。リアは、そんな中で精一杯、力を振り絞って、言う。

「イェン、様……愛して……いま、す……」

 リアの手が頬に触れ、そこで止まった。ぽつり、ぽつりと小ぶりになった雨に打たれ、やがてその手が、力なく地にとさりと落ちた。
 イェンは、リアを抱きしめたまま、ぽつりと言った。
「またか……また、私は……」
 その声が、少しずつ大きくなる。悲壮な、後悔に染まった声で、天を仰ぎながら。
「私は……また、「リア」を……「リア」を失うのか……っ!」


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