第七章 雨に消えた灯火


「ふん、なかなか余裕の表情じゃないか、イェン=オーリック」
 口の中で笑いをかみ殺しながらオリヴァーは言う。ふぅ、とため息で応えるイェン。オリヴァーは、そんなイェンの様子にちっと舌打ち。
「しかも……女二人はべらせての行軍とはなぁ。随分と、俺を小ばかにしてくれるじゃないか。なぁ?」
 ざり、と地面を踏みしめる音が響く。口こそ笑っているが、目は爛々とイェンを鋭く射抜いている。
 ただならぬオリヴァーの雰囲気に、通りを歩く人間も何事かと足を止め、小声で何かを言い合う。その大半はオリヴァーのことを見咎めるような声だったが、オリヴァーにはそれは聞こえていないようだった。
 未だ何も言わぬイェンの元へ、つかつかと歩み寄る。人垣がざわめくが、誰も動き出すことはない。
「どういうつもりで、こうも暢気でいられる? 俺をなめるな……イェン=オーリック」
 がっとその手が伸び、イェンの襟を掴みあげた。
「あっ……!」
「ちょっ……!?」
 リアもロシェルも、その突然の行動に思わず目を開く。取り囲む人垣も、同様にざわざわと騒がしくなる。
「ちょっと、ありゃなんだい?」
「魔術師さんと……よく見えねぇなぁ、手前ちったぁ細身になってみろィ」
「なんだいてやんでぇ、この寸詰まり! 言うなら手前が伸びりゃァいい話じゃァねぇか」
「喧嘩、してんのかね?」
 ざわざわ、ざわざわとさざめく人垣。その声に、オリヴァーもようやく気づいたようだった。ふっと笑いながら、イェンの襟首から手を離すと、そのまま見物人たちに向き直った。
「よく聞け、集まっている者。この男、イェン=オーリックは、罪人だ!」
 高らかに宣言するオリヴァー。その声に、そしてそこに含まれる「罪人」という穏やかではない単語に、人垣は一瞬で静まり返った。その様子を確認しながら、オリヴァーはにやりと笑った。
「この男は罪を犯し、我々魔術師から追われていた人間なのだ。ちょうど五年前だ。この男がこの街に来たのはいつか、考えれば符合するだろう!」
 再び、人垣がざわめいた。オリヴァーの言葉通り、イェンがこの地に落ち延びたのは五年ほど前、学院から逃げ出してすぐにこの辺に来たような形だった。ざわざわと動く街の人間の視線が、少しずつイェンに向けられていく。
「ほとんど着の身着のままであったろう。この男が街に来たとき、誰か事情を聞いた人間がいるか?」
 ぐるりと、オリヴァーは周りを見回してみる。しかし、それに誰も応えるものはいない。
 それは、確かにイェンは誰にも事情は説明しなかった。この街の人間はそんなことを聞かなかったし、聞いてきたロシェルにも当時、込み入ったところまで話してはいない。
 オリヴァーの言葉に、街の人間が揺れる。何しろ、これまでこの男の口に出した内容は、真実その通りであるのだから。五年ほど前にイェンがここに来たのも事実であるし、誰もイェンの事情を知るものはいないというのも事実だ。
「魔術師さんが……? まさかねぇ……?」
「いやぁ、しかし俺たちァ魔術師さんがなにしてるか、なんてこたぁ知らないしなァ……」
「罪、ってなんだろうね……?」
 人の壁から漏れた声に、オリヴァーは我が意を得たりと目を見開いた。
「そう、この男は罪を犯したのだ。禁じられた研究をし、神に背を向け、そのために人をも殺めた!」
 得意げに言うオリヴァー。そのまま、イェンに顔を向ける。
「貴様が何を研究し、何を作り上げたか。貴様に罪がないと思っているならば、それを言ってみたらどうだ?」
 かっと見開かれた瞳、歪み笑う口元。オリヴァーは心底愉快そうにイェンに迫ってみる。イェンは、何も言わない。
「ふ、言えないだろうな、イェン=オーリック。言えるはずがなかろうな。人を! 人間を、その手で作り上げたのだなどとは!」
 周りに聞こえるような、ともすれば町全体に響くような声でオリヴァーは叫ぶ。街の人間のざわめきはいよいよ大きくなった。いかに魔術などの領域に疎い、まったくそんなものに触れたことがない人間にでも、それがすごく途方もない話であることくらいは何となく察せる。
「人の命を作り出す……その考え自体はけして悪いことではないだろう。しかし、そんな研究を、この男は自分の都合だけを考えて、自分のために人まで殺し! その手に収めたのだ! そして、その結果作り上げられたものが……」
「オリヴァー! よせ!」
 イェンは制止する。しかしオリヴァーはそれが聞こえていないかのように……否、聞こえているからこそにやりと笑い、無情に指を別の方向に向ける。
「……それだ!」
「はい!?」
 指差され、驚いた表情を見せる金髪の少女。リアに、街の人間の視線が集中する。
「おい、女」
 オリヴァーはその金髪の少女を呼ぶ。ぱちぱちと、目をしばたたかせながらリアの目がオリヴァーを見る。
「お前は、人間か。そうではないか」
「あの、えっと……その……違います、けど」
 リアの応えに、どよめきはいよいよ大きくなった。イェンとリアに注がれる視線は、好意から好奇へ、そして今、嫌疑へ変わっている。リアは、その視線に狼狽する。その視線からかばうようにロシェルはリアの前に立つが、それで視線が収まるはずもない。リアはその中に晒されながら、おろおろとイェンの顔を見る。
 不安げなリアに、イェンはふっと苦笑する。
「構わん。嘘を言うより、こちらの方がよかった……だからお前のせいではない」
「ふ、殊勝じゃないか、イェン=オーリック」
 くくく、と笑いながらオリヴァーがイェンに話しかけた。イェンは肩をすくめる。何でもないかのようなそのイェンに、オリヴァーの顔が険しくなった。
「余裕だな、イェン=オーリック。その余裕ヅラが、俺を小バカにする態度が、俺には、許せんッ!」
 叫ぶのとほぼ同時。

 ざんっ!

「っ……!?」
 イェンの肩口に、熱が走った。取り囲む人垣も、揺れる。
 何が起こったのかを理解するまで、数瞬を必要とする。振り上げられたオリヴァーの手、その手に握られた銀の輝き。ナイフの切っ先にわずかに光る赤い液体を見て、ようやくイェンは、自分が切られたということを悟った。
「オリヴァー……お前、正気か!? こんな人前で……」
「ふん、人の前など関係あるか。貴様は罪人だ、そして俺はそれを断罪しに来た正三階級魔術師だ」
 呆気に取られる街の人間に説明するように、オリヴァーはきっぱりと言い放った。
「魔術師の不可侵、を……知らないわけではないだろう? オリヴァー……!」
 切られた肩を押さえて言うイェン。助かりたいというよりは、単純に驚きによって発せられた問い。
 魔術師の不可侵。「魔術師ハ魔術他ノ凶器ヲ用イ乃至ハ其レニ準ズル手段ヲ用イテ互イニ傷ツケ又ハ其レニ準ズル行為ヲ行フ事能ハズ」という文で表されるそれは、力を持つ魔術師にはめられた枷のような原則。力のあるもの同士の衝突が周囲に与える被害を鑑みて定められた法。それは勿論、魔術の関わらない、今のオリヴァーの凶行のようなものも含まれる。端的に言ってしまえば、魔術師同士の殺傷は理由如何を問わず、公には認められない、ということ。
 しかしオリヴァーはそれににやりと笑う。
「ふ、無論だ。だが勘違いするな、貴様は……魔術師では、ないッ!」
 言いながら振り下ろされるナイフの切っ先を、今度は何とか身をかわして外す。オリヴァーは舌打ちをしながら、第三撃をイェンに加えるべくナイフを握り、構えた。
 そのとき、混乱一歩手前までざわめいた人垣を掻き分けるようにして、一人の人間がその舞台に入ってきた。オリヴァーはその人物を一瞥すると、にやりと笑う。
「ふ、遅かったな。何をしていたんだ、ケーテ=ハイニヒェン」
「あなたがイェンに手を下すのを、待っててあげたのよ」
 オリヴァーの言葉に、赤毛の女性は目を閉じ、腕を組みながら静かに返した。


「け、ケーテさん……!?」
 思わぬ人間の闖入に、リアは目を丸くする。リアにとっては、ケーテがこういう形でイェンと対峙している様子など、思いもよらない事態だった。
 ケーテは目を閉じたままふっと笑う。
「そうね、あなたはそうやって驚いてくれると思ってたけど……」
 その目が、すぃっと開いた。翠玉の瞳がイェンを見る。
「驚かないのね、イェン」
「……まぁ、な。お前だって、私が何となくそう思っていたということ、気づいていると思ったがな」
 イェンは、ふっと肩をすくめた。ケーテも苦笑でそれに応える。
「そっか……それは、いつから?」
「そうだな……ほぼ確信に変わったのは、やはり姉さんの論文がなくなった、その時だな。あの場所を正確に知っていたのは私の他はお前だけだ」
「……そうね、きっと分かってしまっていたのね」
 世間話のように淡々と二人言い合う。ケーテにも、イェンに最初から少し疑惑の種が芽吹いていたのは分かっていたであろうし、それはイェンにとっても同じ。今までも、ずっと心の中に取り付いていた、心の隅で僅かに息づく疑いの心があった。
 イェンはふっと寂しげに笑った。
「ショックではないが……少し残念だ」
「そうね……残念だわ」
 言ったきり、お互いの目を見る。イェンも、ケーテも、瞳に揺らぎはなかった。そこにあるのは、裏切ったものと裏切られたもの、その二人。
「ふん、罪人、それも魔術師でもない人間に、こちらのやり方に文句をつける筋合いなどあるか。そうだろう、イェン=オーリック?」
 オリヴァーは、馬鹿馬鹿しい、と一蹴しながら手の中のナイフを弄んでいた。
 ざわめきはいよいよ大きくなる。今や嫌疑はイェンとリアにじっとりとのしかからんばかりだ。その目に晒される二人を見ながら、オリヴァーは愉しそうに目を細めた。ナイフをつ、とイェンの目の高さまで持ち上げ、言う。
「ふ、我を張るのはいいが、いい加減にしたらどうだ?」
「いい加減にするのは、あんたよ!」
 オリヴァーの言葉を、一人の声が遮った。
 ざわめきが、一瞬で消える。オリヴァーだけでなく、人垣も。イェンも、ケーテも、そしてリアも、その声の主のほうへと視線を向けた。
「さっきから、魔術師さんが罪人罪人って。あんたのやってることだって、相当なもんじゃない。何、自分が魔術師全体の総意みたいな言い方しちゃって」
 ロシェルの凛とした声が、静まり返った通りに響く。その言葉に、オリヴァーは勿論、イェンも何も言えない。
「大体、みんなもみんな! 何をそんなざわざわしてるの!?」
 びしり、びしりと周りを取り囲む人間を指差しながら、憤慨したように……いや、実際に憤慨しているのだろう。眉根を寄せて問いかけるロシェルの姿。がしっと、リアの肩を掴んで、そのまま周りを見回す。
「確かにね、この子は人間じゃないかもしれない。分類上はね。……でも、だから何? それで私たちが、このミルフィスの街が何か困った? この子が何か迷惑になるようなことした? 誰か一人でも、この子のために何かが脅かされるようなことがあった!?」
 一人ひとりに問いかけるようにして目を合わせる。見られた方は、皆一様に決まり悪そうに眼を伏せた。肩を掴まれ、目を丸くするばかりのリアに、ロシェルは再び目を向ける。にっこり笑って、言った。
「少なくとも私はね、この子が好きだし、この人間じゃない子よりよっぽど、そこの人間だし魔術師の色眼鏡の男のほうが迷惑だし困っちゃうよ!」
 ロシェルの言葉に、通りが再びざわめきだす。イェンとリアに注がれる視線が、少し刺々しさを失った気がした。
「そうだなぁ……俺っちもあの子のことは嫌いじゃないし……」
「別に、いい子だもんねぇ……」
「そもそも、見た目人間じゃないなんてぇトンチキなことでもねぇんだ、外国人みてぇなもんだと思ってもいいのかもなぁ……」
 ぶつぶつと聞こえる街の人間の声に、オリヴァーはちっと舌打ちをする。
「何をバカな……俺は魔術師だ、この男は罪人だ。それを、何を馬鹿なことを……そも、魔術師以外の人間が、こんな危険な研究を持っているとするのならそれ自体、魔術師としては黙って見過ごすわけにはいかない。これは魔術師の問題だ……この、似非魔術師も含めてな」
 一般人には所詮分からなかった、ならば黙っていろとオリヴァーは辺りを睨めつける。そのナイフのような鋭い眼光、そして何より実際のナイフの切っ先に、再び辺りが静寂に包まれた。
「そうね……」
 ケーテも口を開く。魔術師・ケーテ=ハイニヒェンは、腕を組んだままイェンを見据えた。
「魔術師以外の人間が魔術の研究をするのは、黙ってみていることはできないし、事と次第によっては魔術師がそれを止め、裁くのは間違ったことではないわね」
 淡々と言うケーテ。しんと、街の人間はただそれを聞く。オリヴァーは、ケーテの言葉に再び我が意を得たりと、にやりと笑う。
「それに、街の周りには既に包囲を展開している。そういう不届きものを罰しろと固く言われているんでな、邪魔をするなら強行策に出ることも考えなくてはならないな」
 ふっと得意げに笑いながら、街の人間に対して言うオリヴァー。その言葉を受ける形で、イェンが口を開く。
「オリヴァー、私をどうこうというのはいいが。街の人間を脅すのは筋が違うだろう」
「黙れ、貴様の言うことなど理解できんし、貴様がこちらの言うことを理解しないのであればこちらばかりそうする言われもない」
 ぎり、と歯軋りすらしそうな表情でイェンを睨む。イェンはやれやれと肩をすくめた。そんなイェンに、オリヴァーは切っ先をぐいと近づける。
「その余裕を、俺を小バカにする態度をやめろ」
 今すぐにも切り裂かんとするオリヴァーに、街の人間がはっと息を呑む。しかし、それを誰も止められない。血走った目でイェンを睨む、白衣の魔術師の手を、誰も止められなかった。街の人間も、ロシェルも、リアもただ黙って見守っていることしかできない。誰もが、足が地面に縫い付けられたかのように、動けずにいた。
 誰もが見守る中、オリヴァーの手が徐々に上へと向かう。少しずつイェンから離れ、天をつくように上へ、上へ。オリヴァーの手が、強くナイフの柄を握り締める。
 イェンはじっとオリヴァーを見据えていた。切っ先を見つめて怯えたり、逃げたりしようとせず。
 その態度すら、オリヴァーは気に食わない。イェンをぎんと睨んだまま、その口を開いた。
「貴様の姉に代わり……イェン=オーリック、貴様を……裁くッ!!」
 オリヴァーの叫びが、不気味なほどに静まり返った通りに、響き渡った。


イェンは、横合いからの衝撃に地面に横倒しになったところで我に返った。
 状況が理解できずにいる。ただ、目の前にある光景が情報として頭に入ってくるだけだ。地面に体をつけたまま、立ち上がりもしないイェン。その頭が、徐々にはっきりしてくる。
 自分が今までいた場所。そこにいたのは、金髪の少女だった。前に突き出された手は、イェンを突き飛ばした形のまま止まっている。イェンに迫っていた銀の斬撃から護る為に、割り込んできたリア。
 その切っ先はというと。
「ぐ……キサ、マ……?」
 オリヴァーの手は、本来イェンのいた位置……そして今はリアがその身を投げ出しているその背中の中心、触れるか触れないかの位置で止まっていた。オリヴァーが慌てて止めた、わけではなかった。
「話は、最後まで聞くものよ?」
 オリヴァーの腕を、その手でがっちり掴みながら、ケーテはふっと笑う。難なくオリヴァーの手を脇にどけ、地に倒れるイェンの方に目を向けた。
「……そう、普通の人間が魔術の研究をするの、私たち魔術師にとって困るのは、イェンも分かってることよね」
「……そうだな、そこのオリヴァーが言っている通りだ」
 未だ起き上がることはせずに、目線だけでオリヴァーを示すイェン。それに静かに頷き、ケーテはじっとイェンを見た。
「イェン。もう、私がリアさんの論文を盗んだって言うことは、分かってるのよね」
「……まぁ、な」
 ふっと、倒れたまま器用に肩をすくめるイェン。その様子に、ケーテは少しだけ目を伏せ、一歩下がった。オリヴァーがふん、と鼻を鳴らす。
「この男が無事なうちに懺悔をしたかった、とでもいうところか。くだらん」
 そう言って、オリヴァーがずいと一歩イェンに近づいた。手の中でくるくるとナイフをいじりながら、イェンの目の前に立ちはだかる。その一歩後ろで、ケーテは俯いている。
「ふん、とんだ邪魔が入ったが……結末は変わらんようだな、イェン=オーリック」
 つ、とナイフの切っ先をイェンに突きつけ、に、と笑うオリヴァー。
「だ、だめですっ!!」
 イェンの前に再び立ちはだかるようにリアが割り込む。それに付き従うように、ロシェルも動き出そうとする。
「チッ……」
 舌打ちをするオリヴァー。高く構えたナイフをリアのほうへ向ける。そのギラリとした輝きにリアは一瞬怯えるが、その場から退こうとはしない。そのまま、時がしばし止まる。イェンも立ち上がれず、ロシェルも走り寄ることかなわず。
 その沈黙を破ったのは、一人の声だった。
「やめておいた方がいいわよ、オリヴァー」
 俯いていた顔を上げながら、ケーテは静かに言う。まったく焦りも、怒りもない、平坦な声。オリヴァーは再び舌打ちで答える。
「……分かってる。俺だってここでこのホムンクルスに振り下ろすほどバカじゃない。振り下ろすべきは……他の場所だ」
 言いながら、オリヴァーはぎっとイェンを睨んだ。切っ先の狙いが、再びイェンに合わされる。イェンは未だ地に倒れたまま、その切っ先を眺めていた。
「……違うわ。どこに下ろしても、ダメ」
「何……?」
 再びつかつかと歩み寄るケーテに、オリヴァーは怪訝な表情。いや、オリヴァーのみならず、イェンにもよく分からなかった。ケーテはそんな二人を見ると、ふっと笑う。
「つまりはね……こういうこと」
 懐から、さっと一枚の紙を取り出した。羊皮紙一枚を、麻紐で綴じた仰々しいもの。その紙に、その場にいる全員の視線が集中し、その場にいる全員の頭に「?」が浮かぶ。
「何だ、それは?」
「あら、オリヴァーはよく知ってるはずのものだけど?」
 ふふ、と笑いながら言うケーテ。そのままちょいちょいと傍にいたロシェルを手で招くと、無造作にそれを手渡した。
 ロシェルは、ゆっくりそれを開く。どうやら紙に書かれているのは文章らしかった。目で追いながら、声に出していく。
「えっと……証書?」
 読み始めたロシェルに、オリヴァーが固まった。そんなことは気にせずに、ロシェルの声は続く。
「えー……イェン=オーリック。右の者……えーと、何だ? 魔術? 理論? ……の研究を認め、ここにその栄誉を認める……と、共に……あーもう読みにくいなぁ!」
「硬い文章だからね、その辺は我慢してちょうだい?」
 ふふ、と笑いながら先を促すケーテ。ロシェルは再び文章を目で追っていく。
「共に、えーと、同研究士を準……二階級……魔術師と認定することを……えっと、証明する、と。えー、ルランディア……学院理事長……認め。以上です」
 ぺこりと聴衆に頭を下げるロシェル。ケーテはロシェルに目で、それをイェンに手渡すように促す。ロシェルはよく分からないといった表情のままそれをイェンに手渡した。
 誰もが、理解できなかった。ぽかんと、誰もがその様子を眺めているだけだった。手渡されたイェンですら、よく分かっていない表情。
 ぱちぱち、とただ一人手を叩くのはケーテ・ハイニヒェン。オリヴァーのほうに向き直り、にこりと笑った。
「と、いうことね」
「何だ……何が、起きた?」
 固まったまま、ぎぎ、とケーテの方を振り向く。ただ驚くばかりのすべての人間。ケーテは、ぴっと指を立てた。
「端的に言えば……イェンは、魔術師だったって言うこと」
「何……? 何故、そんな……偽だ、偽りに決まっている! そんなもので誤魔化されんぞ!」
 倒れるイェンの手から、羊皮紙を掴み取るオリヴァー。その中身を血走った目で舐めるように読む。ぶるぶると震える手からナイフが落ちた。唖然としたままのイェンが、それでようやく我に返る。
「私にも……どういうことだか」
 ケーテを見上げる。ケーテは笑ったまま、イェンの手を掴んで立ち上がらせる。為すがままに立ち上がり、ズボンについた泥を叩き落しながら、イェンは続ける。
「私は、魔術師になる前に学院を出た。学位が足りねば、魔術師の資格は得られない……その理は、曲げられないはずだ。例の研究が認められるわけもない。どういうことだ、ケーテ」
「ふふ……やっぱり、肝心なところで鈍いのは相変わらずね、イェン」
 ケーテは愉しげに言う。周りがまだ呆然とした表情で見ている中、ケーテはイェンに説明する。
「あなたは、気づいているはずなんだけどね。私が、貴方のところから何を盗んだのか」
「おそらく、いろいろと寝室のものを盗んだのはブラフ。本命は、姉さんの論文だろうな」
 イェンの言葉に、ケーテは「んー」と少しだけ考えるしぐさ。
「半分、正解ね。確かに寝室はブラフ。でも、あれだけじゃ貴方を欺くことなんてできないってことも、先刻承知だったわ。そんなチャチな餌で釣れるような相手じゃないってことは、分かってた」
 鈍かったり鋭かったり、やりにくい相手よ、とケーテは苦笑を浮かべる。
「他にも、なくなったものがあると思うんだけど?」
「ふむ……」
 イェンは何とか思い出そうとする。それに覆い被せるように、ケーテが言葉を放った。
「そして、ルランディア学院魔術学科一年総合成績トップで二年次に進んだ人間、イェン・オーリック。その優等生だからこそ、ね」
 そこまで言われて、イェンはようやく思い当たった。
「……そうか。私の、趣味の……」
「教授陣も、イェンには資格を取らせたかったみたいだしね。論文送ればパスだっていうのは、最初から裏を取ってあったことだし」
 悪びれもせずにケーテは言う。イェンはまったく呆れてしまった。よもや、本命が自分の論文で、リア・オーリックの論文すらもブラフに使うとは。
 ぱさりと、地面に何かが落ちる音。
「……ケーテ・ハイニヒェン……貴様、そのため、だけに……! そんなことの、ためだけに……すべてを騙していたというのかっ!? 俺も、学院も、イェン・オーリックすらも!」
 未だ信じられぬといった表情で、オリヴァーは震える己の手を睨む。そんなオリヴァーに、ケーテはふっと息を吐いた。
「騙すも何も……私は、遠い昔、イェンと約束しちゃったからね」
 言って、微笑みながらイェンを見るケーテ。
「私は、イェンの味方だって。それだけは、護りたかっただけ。何があっても、たとえイェン自身に疑われ、責められてもね」
「……ケーテ」
 魔術師・イェンは、呆然としながらその名を呼ぶ。それにケーテは、あの時と同じ少女の表情でにこりと微笑みで返す。
「ぐ……くっ……」
 ぎり、とオリヴァーは手を握る。手袋がきしむ音が耳に響いた。と、思うと、かっと目を見開き、顔を上げた。
「許さんッ……! 貴様ら……許さんぞ……ッ!!」
 言って、自らの懐に手を突っ込み、中から黒い塊を取り出した。それが何かを確認する間もなく、オリヴァーはそれを振りかぶり、天に放った。

 ぱぁんっ!!

 短い破裂音。頭上高くで弾けた黒い物体は、その残滓をくすんだ色の煙に変える。空に漂う、赤の煙。
 イェンが、いち早くそれの正体に気づいた。
「……狼煙、か?」
「くっく……察しがいいな、イェン・オーリック」
 血走った目のまま、笑うオリヴァー。イェンを指差し、その指を街の人間にも向ける。
「言ったはずだ……この街は、すでに包囲してあるとな。……くっくっくっく……!」
 愉しそうに、心から愉しそうにオリヴァーは笑った。言われなくともそれで分かった。今の狼煙の意味。
「くっ……皆、逃げろ!!」
「ふん、もう遅い! 囲まれた状態から、どうやって丸腰で逃げおおせられるというんだ、イェン・オーリック? ……くくく、やはり最後に勝つのは……俺のようだなっ!」
 笑うオリヴァー。街の人間はざわつき、逃げるべきかそうではないのかを決めあぐねる。ケーテも、どうしたものかと考えてはいるようだが、それすらも間に合うのかどうか。
 立ち尽くすイェンに、リアが駆け寄ってくる。イェンも考える。どうすればいい。どうしたら、惨状を起こさずに済む……?
 明確な答えが出ず、三分経ち、五分経った。ケーテも、イェンもどうすればいいのか、考えあぐねたまま。
 十分が経とうとしたところで、オリヴァーがぎり、と漏らした。腕を組み、苛立たしげな表情。
「くっ……何をやっているんだ」
「街の外で待機していた方々には、お引取りいただきました」
 それに応えた、凛とした声。全員の視線がそちらを向く。かつ、かつと足音が人の壁を進んでくる。
 割れた壁のその間から出てきた人物は。
「……フェリシテ」
 ざわ、と人の壁が波打った。
「何、娘……貴様はなんなんだ」
 じろり、とオリヴァーの目がその少女を射抜く。しかし、フェリシテはそれに怖じず、口を開いた。
「私は、フェリシテ=ラ=アル=シャルロワ。この街の、領主です」
「何だと……ふん、冗談も休み休み言うんだな」
 はっと笑うオリヴァーに、フェリシテは静かに首を振った。
「冗談ではありません。街の人間に害を為さんと待機していた方々には、お引取りいただきました」
 もう一度、はっきりとした口調で言う。
 その様子に、オリヴァーは思わず口をつぐんでしまう。そして、得心する。目の前の少女は、きっと冗談でもなんでもなく、領主なのだろうと。
 半ば呆然としたオリヴァーの手に、縄がかけられた。いつの間にか、彼の周りを警邏隊が囲んでいた。
「く……そ……」
 オリヴァーは、その場でがくりと膝を折った。


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