第七章 雨に消えた灯火


 リアは、物陰からそっと様子を窺っていた。手に持った盆、その上のティーセットを所在無く揺すりながら、玄関の方を見る。
(えっと……オリヴァーさんって、あのイェン様の昔話の……)
 以前聞いたことを思い出す。言われてみれば、なるほど、話に聞いたとおりの人だ。いや、ともするとそれ以上かもしれない。
 白い服をはためかせながら去っていくオリヴァーの後姿が、玄関の向こうに消えていくまで、リアは出ることも戻ることも出来ずに、ただ二人の話を聞いていた。その内容に、少しの身震い。かちゃりと、小さくティーカップが音を立てる。
(あの人……イェン様に、何を……?)
 言っていることの意味は、正直よく分からない。ただ、オリヴァーの言葉に、なにか良くない予感を覚えた。
「あ……」
 ふぅ、と溜め息をつきこちらを振り向いたイェンと、目が合う。リアは、とてとてとイェンの傍まで歩いていった。
「あの、今の方は……あのオリヴァーさん、ですか?」
「ん、ああ……聞こえていたか」
 リアの問いに、溜め息とともに肩をすくめるイェン。そのまま、どっと疲れたように手近にあったソファに身を沈める。
「ん……? リア、何を持っているんだ?」
 イェンが、リアの手にあるものを見止める。盆に載ったティーセット。
「え、えっとそのあの、お客様にお茶を……出そうかな、って……」
 リアは言い訳をするように、わたわたと慌てて言う。その言葉に、イェンは最初少し目を丸くし、やがてふっと優しげな顔をし、「そうか」と笑った。
「せっかく淹れたんだ。下げるのも忍びないな……リア、一杯貰おう」
「へっ、あ、えっと、はい」
 リアはひとしきり慌てると、とんと静かにイェンの前にティーカップを置き、紅茶を注ぐ。赤く、黒い液体がカップを満たした。
 それを手に取り、口に運ぶ。
「……すっかり、茶癖を覚えたな」
 少し苦めの紅茶に、イェンはふぅと小さく息を吐く。
「ちゃくせ……? えとあのっ、まずかったですか……っ?」
 慌てるリアに、苦笑する。取り上げようとするリアの手を避け、もう一口啜った。
「指示をしなくても、私の好みにできるようになった……と言っているんだ。美味いぞ」
「あ……えっと……は、はい……」
 褒められ、何となく先ほどの自分の慌てぶりと、それに混じって別の何かが胸に湧き上がり、気恥ずかしさにぎゅっとトレイを抱きかかえて顔を隠してしまう。
 そのまま、イェンが紅茶を飲むのを、何となく傍に立って見ていた。しばらくの時間が流れる。二人とも、何も話さない。
 が、やがてリアが息を吸い、声をかける。
「すぅ……あ、あの……イェン様」
「ん?」
「あの……どう、するんですか?」
 おずおずと、イェンに問うてみる。トレイを持ったまま、手をもじもじとさせ、聞いていいのかどうかと迷いながら、言葉を投げかける。
「さっきの、あの、オリヴァーさんの……イェン様に、何かするって……私、なにかできないかなって……」
「……ああ、そのことか」
 イェンは、リアの言葉に苦笑する。先ほどのオリヴァーの言葉を思い出したのだろうか、一度溜め息をついてから、再びリアの方を見る。
「大丈夫だ。お前は、何も心配しなくていい。……私が、何とかする」
 肩をすくめながら、リアに応える。
「でも、あの……私のせいだから、その……」
「お前のせいじゃない。だから、心配するな」
 安心させるように、穏やかに告げるイェン。そのまま、思索に入るかのように目を閉じて、紅茶の残りをくっと呷る。
 と、部屋の空気が、変わった。イェンは、ごく最近感じた覚えのある違和感に、思わずカップを置き、リアを見た。
「……私、イェン様のお役に……立てませんか?」
 リアが、ぎゅっと強くトレイを握りしめ、うつむいていた。
「り、リア?」
 ぎょっとして立ち上がるイェンに、俯いたリアのこぼす言葉が届く。
「わ、私……イェン様の、パートナーとして生を受けたって……思ってます。イェン様を助けて……イェン様の力になるために、生まれたって……」
 力強く握りすぎているためだろうか、リアの手が白くなっている。
「それに……そんな、組み込まれた目的じゃなくって……イェン様の、力に……なりたいって、思うのに……私……力、足りなくて……っ!」
 ふるふると、震える膝で精一杯立ちながら、リアは言葉を紡ぐ。その手から、銀の盆が床に落ち、からんと乾いた音を立てた。
「わ、私じゃ、力になれないかもしれない……です、けど……っ! でも……でも、悔しいです……っ! い、イェン様の傍に、いるのに……何も、できない……大事な、時に……大事なとき、ほど……何も、できないのが……っ! ……すごく、悔しい、です……っ! 私……わたし……っ!」
 ともすれば、溢れそうになる感情を、涙を堰き止めながら、リアが吐露した言葉。その言葉が、不意に止まった。
 ぽん、ぽんと。優しくリアの頭をなでる手。リアは、驚いたように顔を上げる。拍子に、目の奥に溜まっていた涙が、一滴頬を伝った。
 丸い目で、きょとんとイェンを見る。
「っ……い、イェン……さま……?」
「すまなかった、な」
 イェンは、自嘲気味に笑った。「私は、駄目なヤツだな」と前置きし、リアの頭を優しくあやすように撫でながら、言う。
「どうにも……昔の人間に会うと、姉さんが死んだときのことを思い出してしまってな。姉さんのように失いたくないから、あまり危ない目にはあわせたくなかった。危険なことをさせるよりは、私が危険なほうがまだマシだ、とな。……だが、そう考えるのは、私の身勝手だったのだな……」
 ふっと、視線を外して外を眺めるイェン。リアもその視線の先を追う。リアが生まれて初めて見る、雨。リア=オーリックが死んだときにも降っていたという、雨。
 イェンは、再び視線をリアに戻す。
「ケーテにも、言われたのにな……つくづく、学習能力のない男だと思う。……すまなかったな、リア」
「イェン……様……」
 イェンの懺悔が、耳から全身に入ってくる。くしゃっと、リアの顔がゆがむ。イェンは、もう一度リアの頭を撫でると、ふっと息を吐き、苦笑を浮かべた。どさりと、ソファに身を投げ、リアを見上げる。
「正直、考えあぐねていたところだ。どうしたらいいのか、私だけでは答えが出そうもない。「何とかする」などと言ってはみたがな……リアも、考えてくれるか?」
「……はいっ!」
 ぐしぐしと、少し乱暴に目をこすり、リアは満面の笑みで応えた。


 改めて、二人で考えてみての結論は。
「……さっぱりだな」
「うう……」
 妙案など浮かぶはずもなく、二人差し向かいで茶を飲むだけの結論と相成った。
「まぁ……最初から分かっていたがな、この結論も」
「す、すみません……」
「いや、リアのせいじゃないさ」
 苦笑しながらイェンはカップを口につける。すっと口の中に広がる紅茶の香り。窓の外の風景は依然として暗かったが、窓に付く雫はもう、しばらく前からその姿を消していた。
 そんな様子を見て、イェンはポツリと漏らす。
「……雨、止んだな」
「あ、ほんとですね」
「洗濯物はしなくていいからな、病人」
「ひゃいっ!?」
 図星だったのだろう。立ち上がろうとしたリアの体がびくんと跳ねる。どさりと、尻からソファに落ちるリア。
「……まったく」
「だって、ですねー……?」
 ちょんちょん、と人差し指同士を合わせながら、イェンを上目遣いで見つめる。イェンはそんなリアに苦笑で応えるしかない。
「お前のやる気は分かっているが……無理をして、仕事が増えない自信があるならやってもかまわんぞ?」
「うー……イェン様、いじわる……」
 いじけるリア。とはいえ、もう無理をして洗濯物をしようという考えは持っていないようだった。ふっとイェンは笑う。
「休むのも、お前の大事な仕事だ」
 言いながら、すっと身を乗り出してティーポットを取ろうとするイェン。
「あ、私がやりますよイェン様」
 リアも手を伸ばす。自然、二人の手がティーポットを挟んで近づく。
「あっ……」
「む……」
 つい先ほどもあったような感覚。それが二人の手の動きを鈍らせる。その中途半端な躊躇が悪かったのか。
 リアの手が軽くティーポットに触れ、掴むことなく引かれる。手に押され、ティーポットは傾く。

 ばしゃっ……。

「……ぅ熱っ!?」
 包帯の巻かれた足に突然感じた熱に、イェンは思わず声を上げ、立ち上がってしまう。包帯の周りに、ズボンが吸い付くような感覚。
「い、イェン様大丈夫ですかったったった!?」
「り、リアっ!?」
 突然立ち上がるリア。その足が自分のスカートを踏んづけ、思い切り前につんのめる。イェンは慌てて手を伸ばし、その体が地に倒れ伏す前に何とか受け止める。
 はぁ、と溜め息一つ。
「まったく……何をやってるんだ」
「あの……その……」
 リアはしどろもどろになりながら、イェンの腕の中でばたばたとする。
「えっと、あのですね……っ!?」
 ひとしきり暴れて、突如としてリアがその動きを止める。じっとイェンを見つめたまま、固まったように動かない。
「り、リア……どうした?」
 抱きとめたイェンの方も、何となくそのまま動けないでいた。リアの赤い瞳が自分を包むかのような錯覚に、くらくらと眩暈すら覚える。
「……」
「……え、と……」
 リアの瞳の赤が揺れる。潤んだ瞳のまま、零した言葉。飾りっ気のない、しかし薄桃に染まる小さな唇から、息と共に聞こえてくる言葉。
 リアを抱きとめる、イェンの意外と太い、固い腕。暖かさと共に、イェンの鼓動が体に伝わってくる。
 イェンも、リアも。金縛りにあったように動けない。
 ごくり、と……イェンが生唾を飲み込む。今、自分が相対しているものが何であるかが分からない。
 すっと……リアが、静かに瞳を閉じる。彼女は、自分が何をしているかも分かっていない。ただ、目を閉じた、ただそれだけのこと。
 イェンは、目の前に霞がかかったような感覚に襲われる。ずくん、ずくんと痛いほどに鳴っているのは、赤く染まった左足か、それとも己の心臓か。
 リアは、いつもの胸の痛みを、今は感じていなかった。自分を抱きかかえるイェンの手が、その痛みをかき消しているのかもしれない。
 ぼんやりと、二人の顔の距離が少し近づく。
 イェンの鼻腔に、リアの匂い。リアの体に、イェンの温もり。
 もう少し、近づく。
 何も、考えられないまま、ただ体だけは無意識に動く。
 近づく。

 こんこん、こんこん。

「ひゃいっ!?」
「っ!?」
 玄関から聞こえた音に、唐突に頭の中の霞が吹き飛んだ。二人はばっと離れる。
「リーアちゃーん? いるー?」
 扉の向こうから、声が聞こえた。それだけで、イェンもリアも、体温が急激に下がっていくのを感じる。
(私は……今、何を……?)
 ぼんやりと、曖昧な記憶の中の像。イェンは頭を振る。
「リーアーちゃーん? 魔術師さーん?」
 どんどん、とノックの音と共に聞こえる声。その声の主は、イェンもリアも良く知る人物、ロシェル=フォートリエのものだ。
(私……今、何してたん、でしょう……?)
 少し前のことのはずなのに、思い出せない。リアは、再び痛み出した胸の奥に少しだけ顔をしかめる。
「いーなーいーのー?」
 扉の向こうのロッシの声が、だんだん大きくなる。イェンは一度大きく息を吸い、そして吐いた。少し熱の篭った吐息が外に逃げ、頭がはっきりとした。
「……早く行かねば、扉が破壊されかねんな」
「えと、……うん、そですね。あはは」
 リアもちょっと乾いた笑みを浮かべながら、ドアを眺めた。そして、そのドアにとてとてと歩み寄る。その後ろを、ゆっくりとイェンも付いていく。
「まーじゅー……」
「あんまり叩かないでくれ、頑丈な扉ではないんだ」
 がちゃりとリアが扉を開け、その向こうにいる緑色の髪の少女に苦笑気味に話すイェン。
「あ、いたいた。もー、どーしたんですか? 魔術師さんは怪我してるっていうし、私のリアちゃんは病気になっちゃったっていうし魔術師さんの怪我はともかくリアちゃんの身に何かあったらと思うとっていうか思う何かあった後ではあるんだけど風邪は万病の元とも言うしこじらせちゃったりしたらもうお姉さん生きていけないから心配で心配で来ちゃったんだけど、あ、はいこれメロン。町の果物屋さんからの差し入れで今年の初物だって言うからこれお見舞いにどうぞお納めくださいところで本当にリアちゃん大丈夫?」
 こちらに掴みかからん勢いでロシェルがまくし立てる。腕の中に半ば無理矢理メロンをねじ込まれ、イェンはどうしたものかと溜め息。
「あ、あのロッシさん……」
「あ、ちょっとリアちゃん顔赤いよ? やっぱり熱出ちゃってる? 咳は? 乙女にこういうこと聞くのはどうかなって思うけど鼻とか出てたり便がゆるかったりしてる?」
「あ、あの、これは別に……その……」
 自分の頬の紅潮を指摘され、リアは何となく決まり悪そうにロシェルとイェンの顔を交互に見比べる。それで、何となくロシェルは納得したらしかった。
「そっか。じゃあ、そんなに重病人、っていうわけでもないんだ」
「おいおいロッシ。確かに重病人ではないかもしれないが……何をしようというんだ?」
 ぱしっとリアの手を握ったロシェルに、イェンは苦笑しながら声をかける。
「いや、まぁせっかく雨止みましたし、ね? ここ最近リアちゃんとお話してないし、リアちゃん分補給をかねてお散歩でも使用かなーと」
 空を指差しながら、ロッシは言う。空は相変わらず曇天だが、確かに先ほどと変わらず雨は降っていない。
「……ふむ」
「あの……イェン様」
 腕を組んで考えるイェンに、リアがおずおずと声をかけた。イェンは、彼女にふっと苦笑を向ける。そして、再びロシェルに向き直った。
「……リアはまだ、完治しているわけではない」
「あ、やっぱりそうなの?」
「う……えっと、その……」
 決まり悪そうに、リアがもじもじと二人の顔を見比べる。イェンは一度だけ溜め息をついた。
「だから、走ったりするのは論外だ。当然な」
「え……?」
「……イェン様……?」
 二人の目が、きょとんとなる。まん丸な二対の目に見つめられ、イェンは若干苦笑気味だ。
「私も、外に出たいと思っていたところだ。家の中で机を睨んでいても、埒が明かん」
「えっと……よくわかんないんだけど……それは、リアちゃんお持ち帰りOK、ってこと? ……いたっ!?」
 ぺしん、と一発、イェンの平手が軽くロシェルの頭を小突いた。
「誰が、持ち帰りまで許可した」
「へへへー、ちょっと調子に乗ってみました」
「……まったく」
 はぁ、と頭を押さえるイェン。しかし、その唇の端は上向き。ロシェルとリアの顔を見、一言だけ念を押す。
「繰り返して言うが、走ったりするなよ?」
「はーい」
「は、はい、わかりました」
 返事をするや否や、ロッシは改めてリアの手を取り、丘を貫く下り坂を駆け出していった。少し後に残されたイェンは、ぼりぼりと頭をかく。
「……まぁ、期待してはいなかったがな」
 苦笑と共に溜め息を吐き、肩をすくめる。そのまま、館の玄関を施錠するとイェンは、二人の後を追って、坂を一人歩き始めた。

 空を覆う雲は、ところどころ晴れ間を見せながら、まだ薄暗く大地を見下ろしていた。


 前を歩くリアとロシェルに付いて足を進めながら、イェンは空を眺める。足は若干痛むが、こうして歩く分には支障がなさそうだった。
(ふむ……曇っているな)
 雨は降っていないが、風が湿り気を帯びている。まとわり付くような空気の感覚に、イェンははぁ、とため息をつく。
(オリヴァー……か)
 湿った空気に、先刻のことを思い出す。
 覚悟はしていなかったわけではない。しかし、いざ目の前に突きつけられるとどうにも思考がまとまらなかった。それは一方では、見ぬ振りをして事なきを得たいという逃げ腰の姿勢かもしれないし、或いは自分以外のものに累が及ぶということからの慎重さかもしれない。
 いずれにせよ、これからどう事が動くのか。注意深く構えて対応していくしかないな、とイェンは結論付けた。こちらの回答の後に答えが決まるなぞなぞのようなもの。こちらがAと言えばBが正答になる、悪意に詰め寄られた状況。ならば事前にできることといえば、奇しくもオリヴァーの言っていた「覚悟を決める」ということだけなのだろう。
 そこでふと気づく。
(存外に……不安はないな)
 少し驚いた。感情の起伏が少ない自覚はあるが、それにしても我ながら泰然と構えすぎなのではないだろうか。いろいろと、ショッキングなことはあったはずだ。しかし、こんな追い詰められた状況であるのに心は揺れ動いていない。
(まったく……。結局、何も浮かばなかったというのにな)
 イェンは、苦笑と共にため息を吐く。
 もし、この落ち着いた凪のような心の理由、ここまで落ち着いていられる根拠を探るとしたら、その答えは。
(……やれやれ、だな)
 顔を下ろして、眼前を見遣った。視線の先には、前を歩く……否。
「走るなといったろう!?」
「ひゃい!?」
 ロシェルに手を引かれ、丘を駆ける金髪の少女。イェンの声にびくりと肩を跳ね上げ、ばさりとその長い髪を躍らせているその少女が、理由らしい理由なのだろう。
 彼が作った、そして彼が意図した以上に「人間」として在るその少女。彼女の心からの願い出が、胸に再び過ぎる。
「まったく……」
 がしがしと頭を掻き、少し足を速める。ぬるい風が頬を撫で、イェンの髪を揺らす。鬱陶しく視界を遮る前髪を掻き上げ、ふるふると小さく顔を振る。
「なるようにしか、ならんか」
 少なくとも、リアを見ている限りはそんな風にも思えた。我ながら危機感がないな、とは思うが、それすらもあまり気にならない。
 と、言うよりは。
「あわっとっとっとっとっとっと……!」
「くっ……!」
 転びそうになるリアを、なんとか腕を伸ばして支えてやる。傍で見ていたロシェルが「おー」などと漏らしながら、ぱちぱちと拍手。
(もっと原始的なところで、心配の種があるからかも知れんな……)
 ふっと苦笑する。腕の中で目を丸くしているリアを、ぐっと押して立たせてやるイェン。リアはぱちぱちと目をしばたたいていたが、やがてその頬にさっと朱が差した。先ほどのことを思い出してしまったのかと思い至り、イェンも何となくかける言葉を失ってしまう。
 その二人を交互に見比べて、にっと笑う人物が約一名。ははぁんと独り頷き、腕を組みながらにこにこしている。イェンは誤魔化すように咳払いをすると、再び空を見上げた。
「しかし……何だな」
 口を開こうとするイェン。その言葉を遮るようにロシェルはにっと笑う。
「リアちゃんが可愛い?」
「ここ最近見ない天気だな、と言おうとしたんだ!」
 ぜはー、と肩で息をしながら、茶々をいれるロシェルに半ば叫ぶように言う。ロシェルはひとしきり二人を見比べていたが、やがてその視線を空に移す。
「んー、でもそですねー。この辺って、ほとんど雨が降らないってー事で有名だったりなんかしちゃったりなんかして。私も、雨なんて久しぶりに見たかも」
「少なくとも、私がこの街に来てからは、一度も見たことがないな」
 そのまま、空を覆う雲を三人ただ黙って何となく見る。じっと見ていれば微かにわかる程度に、ゆっくりと流れている雲。
「この、今にも雨が降りそうな雲……嫌な感じだよねー」
 むぅ、と少し眉根を寄せながら、ロシェルがこぼす。イェンも肩をすくめた。
「そうだな……あの日、あの時もこんな天気だった」
「あの日……って、あっ……!?」
 少し考え、「その日」に思い当たったロシェルが、途端に申し訳なさそうな顔をする。思い当たった時の驚きのまま口に手を当て、イェンの顔を見るオレンジの瞳が、少し不安そうに揺れる。イェンはふっと笑う。
「気にするな……過ぎた話だ」
 それだけを言うと、イェンは歩き出した。二人に近づき、ぽんとその肩を叩く。
「行くぞ。街へ行くのだろう?」
 くい、と顎で町並みを示す。丘ももう麓、あと少し歩けば、街の通りへ到達する。何となく先へ歩き出そうとするイェンを、ロシェルが呼び止めた。
「あ、えっと今日は私の店に来てほしいかな。また新しい服が入ったから。どうリアちゃん?」
「服、ですか? たくさんありますから、大丈夫ですよ?」
 首を傾げるリアに、ロシェルはちっちっちと指を振る。
「甘い、甘いねリアちゃん。このお姉さんは何でもお見通しなんだから」
「な、何でもですか?」
 リアはごくりと喉を鳴らす。その鼻先にびしっと指を突きつけた。
「リアちゃんの服のラインナップは、厚手の生地が多い!」
「あ、当たってますっ!」
「それはつまり冬と春用だということ! リアちゃんの衣装箪笥には、薄手の夏服は一着もないっ!」
 自信たっぷりに言い切る。リアの目が驚きに見開かれた。
「す、すごいですロッシさん! 当たってますよ」
「ふふん、まぁねー」
 えへん、と無い胸を張るロシェル。すごい、すごいと尊敬の目でロシェルを見つめるリアの、その肩をちょいちょいとイェンはつつく。
「はい? イェン様もすごいと思いますか?」
 少し興奮気味の顔をこちらに向けるリアに、イェンは苦笑した。
「いや……いいか? 誰が、お前の服を今まで持ってきていたか。それを考えろ」
「はい……? えっと……あ」
「てへ、ばれましたか」
 舌を出しながら、こつんと己の頭を叩くロシェル。ただ一人の、リアの衣装調達役のあははと笑うのに合わせて、イェンは頭を抱えてため息。
「まぁ、推理ごっこはさておき、そろそろ衣替えの季節だしねー。そろそろ渡そうかなと思ってたんですよ、この子に。あれとかー、これとかー……あーもう可愛すぎっ!」
 頭の中で着せては脱がせ着せては脱がせしているんだろう。ロシェルはぎゅっと己の体を抱きしめるように手を回す。一通りその場で踊ると、ロシェルはぱっと二人に向き直る。
「さて! というわけなので、フォートリエ被服店に行きましょうー!」
「というわけにはいかないな、田舎娘」
 ロシェルの声を遮るように、通りの人通りを割って声が聞こえた。三人は、そちらを見遣る。
 通りの真ん中、人の行きかうその只中に、仁王立ちでこちらを見ながらにやりと笑う男がいた。
「そういうお楽しみをするわけにはいかない身なのだということ、分かっているだろうな、イェン=オーリック?」
「……オリヴァー」
 その男の名前を、口に出す。オリヴァーは、イェンをじっと見据え腕を組みながら、応えるように頷いた。


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