第七章 雨に消えた灯火


 暗い地下室の中、イェンはただ一人立っていた。
 目の前にある、大きな容器。硝子(メルクリウス)の透明な筒に手を当てて、無言で目を閉じる。手のひらに、僅かに感じる埃のざらざらとした触感。
(もう……すっかり役目を終えた、といった感じだな)
 イェンは苦笑する。ホムンクルスのための、ホムンクルスのために作られた硝子の容器。ここ数ヶ月、まったく存在を思い出すことすらもなかった。
「……ここから、始まったのだな」
 リアが目覚めたときのことを、思い出す。この大きな筒の中、それだけを狭い世界として与えられ、ずっと眠るようにそこに在った、少女の形をしたもの。
(……リア、か)

『はい、マスター……私は、リアです』
『いぇんいぇん……様ですか?』


(……最初から、人間らしかったというか……まったく)
 知らず苦笑が漏れた。今はその場にいないリア。その命が、この場所で目覚めた瞬間のこと。そのときの事が、思い出された。
 まだ、歩くことも、喋ることもままならず、長い髪をもてあましながら地を這っていたリア。それでも、その瞳はじっとイェンを見つめていたリア。
 そのときから、リアはどれだけ変わっただろうか。今はもう何も入っていない筒に映るのは、自分の顔ばかり。
(……ひどい顔だ)
 ここ最近、眠りが浅いせいか、どうにも顔からダルさが消えていない。もともと精悍な顔つきではないという自覚はあるが、それにしても少しダルすぎる。
「……ふぅ」
 その不眠の原因を、イェンは思い出すでもなくぼんやりと考える。言うまでもなく、リアのこぼした言葉。

『わ、たし……っ……イェン様に……イェン様に、とって……っ……いらないものに、なりたく、なかった……っ!』
『私、が……イェン、様の……イェン様の……そばに、いるっ……た、めには……っ……私、そう、するしか……する、しかなかった……っ、ん、です……っ!』


(……なんなの、だろうな)
 がしがしと、頭をかく。
 さしものイェンも、その言葉の意味に気づけないほど愚かではない。あまりにも自分にストレートにぶつけられた感情に、イェンはここ数日ずっと戸惑っていた。
 そんな風に、都合のいい記憶の植え付けなどはしていない。というより、そういったことが埒外であったという方が正しいが、いずれにせよリアの口から語られた言葉は、紛れもなくリア本人の、リアが考えリアが放った言葉であるということだ。
 こつんと、メルクリウスの筒を手で軽く叩く。
「まぁ……しかし」
 その筒をじっと眺める。その中に何がいるわけでもないが、ある一点をじっと見つめていた。
「普通の……少女そのものではないか」
 ふっと、微かに笑みがこぼれた。それが、自嘲であったのか、あるいは安堵の笑みであったのか、イェン自身にもわからない、方向不知の笑み。
 イェンは、くるりと筒に背を向け、ふぅと息を吐く。
「いずれにせよ……」
 誰に言うでもなく呟いた言葉。強いて言うならば、その硝子の筒に向かって。
「この装置は、もう使うこともないだろう……な」
 ホムンクルスのための装置に、別れを告げるように。イェンは一度ポケットから手を出して、その手を挙げるでもなく挙げた。当然、それに応えるものはない。
 一度、肩をすくめると彼はこつこつと、誰もいない地下室に小さな、固い足音を響かせながら出て行った。

 地下室から階上に上がると、そこではリアがふらふらと歩き回っていた。
「あ、イェン様……あの、どちらに?」
 イェンの姿を見止めると、とてとてと静かに近寄ってくる。じっと見つめてくるその赤い瞳。
「ん、ちょっとな……」
 何となく、今のリアにはホムンクルスがどうの、という話はしたくなかった。イェンは少し言葉を濁す。リアは「?」と首を傾げたが、それ以上の追求はしない。その代わりに、リアはちょっと俯き、身体の前でちょんちょんと指を合わせながら。
「えと……イェン様、なにかしてもいいですか?」
「何か……?」
 尋ねるイェンに、リアはピクリと肩を竦ませ、うにうにと指同士を絡ませながら、もごもごと口の中で言葉を紡いだ。
「だからー……そのー……お洗濯物、とかー……洗い物、とかー……?」
 その様子に、イェンは思わず苦笑をしてしまう。彼女は、あの日自分が何を言ったのか覚えていない様子だった。ただ、その内容を当然リアは心の中に秘めているだろうし、イェンも知ってしまった。
 はぁ、と一つ溜め息。
「……体の具合はどうだ?」
「え……あ、そのえっと、も、もう完璧大丈夫ですよ!」
 目の前でガッツポーズをしてみせるリア。イェンはもう一度溜め息。腰に手を当て、リアを見る。
「……正直に」
「……あの、まだちょっとだるいですけど、この前よりマシになりました……」
 うー、とうなだれながら、なんとなく決まり悪そうにリアは言う。三度目の溜め息を吐きながら、イェンは苦笑交じりで告げた。
「……外には、出るな」
「……えっと?」
 イェンの言葉に、リアの目がきょとんとなる。イェンは、一度リアから視線を外し、館の中をぐるりと見渡してからもう一度リアを見た。
「館の中でできて、お前の負担にならんことなら、好きにするといい」
「え……あ、その……え? あ……」
 リアの顔が、驚き、不安、また驚き、そしてぱっと明るくなる。見ていてはっきりと彼女の心の中が分かるような百面相。イェンはふっと笑ってしまう。
「何かあったら、書斎にいる。いつもの通りだ」
「あ、は、はいっ」
 リアはその場で「気をつけ」をして、ぴしっと拝命する。その少し明るいリアの様子を見て、イェンの脳裏に先日の彼女の言葉が再び過ぎった。

『私、が……イェン、様の……イェン様の……そばに、いるっ……た、めには……っ……私、そう、するしか……する、しかなかった……っ、ん、です……っ!』

(……断れようはずもあるものか)
 苦笑する。その様子を見て、リアは首をかしげた。
「あの……どうかしました?」
「……いや。転ぶなよ、と思っただけだ」
「あー、えっと……その、きっと大丈夫です……」
 リアは言うが、きっとそれもダメだろうな……などとイェンは思うが敢えて口に出さない。そのまま、とてとてと踵を返して仕事に向かうリアの背中を見送って、イェンはふっと静かに息を吐く。
(まぁ……リアが覚えていないなら、私も何も聞いていない……とした方がいいのだろうがな)
 できもしないことを、とイェンは自嘲気味に肩をすくめながら、こつこつと歩を進めた。その頭の中に、金髪の少女の姿をぼんやりとちらつかせながら。


 イェンは、書斎で一人立っていた。あれから少しは片付けたとはいえ、まだ元通りというには程遠い。
(それに……どうしたって元通りにはなるまい)
 苦笑する。その視線の先には、紙の束の置かれた書棚。なくなった、リア・オーリックの研究論文。どうしたって、一人の人間の顔が頭を過ぎった。
 間違いないという確信は持っていながら、その確信を持ってしまう自分が少し辛かった。
「……ひどい、天気だな」
 自分の中の何かを誤魔化すように、外を眺める。数日前から降り続いている雨は、未だ眼前の風景を濡らし続けている。そういえば、雨などここ数年見た覚えがない。ともすれば、学院でその身に受けたのが最後かもしれない。
 だからだろうか。この雨を見ていると、イェンは胸の奥がざわめくのを感じた。心臓が、じわりと締め付けられるような、微かな息苦しさ。
「……ん?」
 窓枠の側、自分の手元に写真立てが倒れていた。学院時代のイェン、ケーテ、リアの肖像が入ったその写真立てをそっと手に取る。
「……ふっ」
 思わず、自嘲気味の苦笑が漏れてしまった。そのまま、ことりと窓枠に立てる。
(やはり……元通りには、ならない……か)
 少し寂しげに呟く。その声に応えるのは、雨音ばかり。
 写真立ての真ん中、リアを貫き、イェンとケーテを引き裂くように走った罅を、指でそっと撫でる。指先に当たる、水晶の固い感覚。
(まったく……出来過ぎだな)
 ふっと、静かに溜め息をこぼす。写真立てをなぞる指先は、罅をたどり上から中央へ。ただ、何となく下ろしていく。
「っ……!」
 かっと、指先に軽い熱。イェンは、咄嗟に手を離す。じんわりと、痺れる指を眺めていると、やがてほのかに現れる紅色。
「……何をしているんだろうな、私は」
 ひび割れたガラスをなぞればどうなるか。そんなことは、考えなくても分かる。当然の帰結だろう。しかし、この紅色にすら、イェンは何かを感じてしまう。写真立ての向こう、リアの姿に僅かに重なる赤が、目の中に飛び込んでくる。どくんと、心臓が一度大きく跳ねた。目の前一面に、その赤が広がる。その赤は、目を閉じても、写真から目を背けても、じわじわとイェンの頭の中に進入してくる。
 ざんざんと遠くに聞こえる雨の音。隙間から僅かに入ってくる弱い風。
 やがて、その赤は目を伝い、頭の中の方まで上がり、イェンを包み込もうと広がってきて……。
「あの……イェン、様……?」
 唐突に、その赤が晴れた。つい先だってとまったく変わらない書斎の風景が、イェンの目に映った。少し汗ばんだ背中に、隙間風が心地よい。
「大丈夫……ですか?」
「ん……あ、ああ……」
 いつの間に隣にいたのか、こちらを覗き込む金髪の少女に、イェンは何となくぼうっとしながら、頷いた。振り返ってみれば、何ということはない。ただ写真立てに罅が入り、それをなぞった指が切れた。ただそれだけの話。
(……バカだな、私は)
 指先を眺める。もう、血も止まっていた。何を狼狽していたのだろうか。
「イェン様……?」
「ああ、いや……どうした?」
 未だ心配そうな顔をしているリアに、イェンは慌てて居住まいを平生に戻す。リアはまだ少し解せない、といった顔をしていたが、深く考えはしなかったようだった。すたすたと扉の側まで歩き、地面に置いたトレイを手に取った。
「えっと、お茶が入ったので……」
「ん、そうか。じゃあ、いつものようにそこに置い……」
 ……といてくれ、と言おうとして、少し言葉に詰まった。いつもの場所、書斎の机の上には、散らかされた本が山と積まれていた。ティーセットの置き場などどこにもない。
「……ておくことはできんな。……ならまぁ、今貰おう」
 苦笑しながら言って、リアに向かって手を差し出す。
「あ……はい、ただいま」
「しかし……久しぶりな気がするな、リアの淹れた茶というのも」
「すみません……ここのところ、淹れられなくて」
 イェンの言葉に、リアは少しうつむいてしまう。イェンは慌てて手を振った。
「いや、お前を責めているわけではない。というか、ここ数日でお前が淹れに来たら、私はもっと怒っていなければいけないところだ」
 はは、と苦笑する。つられて、リアもくすりと笑顔を浮かべた。
「でも、やっとまた淹れられるようになりましたから……はい、どうぞ」
「ん、すまんな」
 差し出されたカップに手を伸ばす。久しぶりの紅茶の微香を鼻に感じる。そのまま、カップをリアから受け取り……。
 ひたと。
 リアの手に、イェンの指先が触れた。
「ひゃあっ!?」
 短く、甲高い悲鳴。それに遅れること数瞬。ばしゃぁ……と床に落ちたカップから、中身がぶちまけられた。イェンは手を伸ばしたまま、リアは少し身を引き。そんな姿勢でしばらく硬直してしまう。
 雨音が、やけに耳に付いた。ただ黙って、二人とも驚いた顔のまま固まっている。
 先に我に返ったのはイェンだった。
「す、すまん……」
「あっ、え、いえ、あの……すみません……」
 言いながら、二人同時に屈み込んでカップに手を伸ばそうとする。
「……」
「……」
 カップの上で、二人の手が静止した。よく分からない膠着状態。リアがずい、と身体を前に乗り出した。
「あ、あの……ここは私が片付けますので……っ!」
 イェンからカップを遠ざけるように、体全体でカップを庇うような姿勢。イェンは身を起こすと、ぼりぼりと頭を掻いた。
「ん……そうか。なら、頼む」
「す、すぐ淹れ直してきますから……!」
 高らかに宣言すると、リアはイェンの目を避けるようにふいと横を向き、そのままティーセットを胸に抱えた。こちらに背を向けるリアの、その耳はほんのり赤らんでいる。
 とたとたと、足早に部屋を出て行くリアの姿を見送って、イェンは再びぼりぼりと頭を掻く。
(……何だというのだ……?)
 何となく、分かってはいる。しかし一方で、よく分からない。この確信が正しいのか、間違っているのか。イェンには分からない。
 その場にただ立ち尽くしながら、イェンは考える。
 しかし、その思考も長くは続かなかった。

 どん、どんどんっ!

 二階にいるというのにはっきり聞こえる、玄関のノックの音。その荒々しさに、イェンの思考が吹き飛んだ。
(何だ……こんな雨の日に、誰だ?)
 今まで、こんな風に扉を乱暴に叩く音は聴いたことがない。イェンは怪訝に思いながら、階下へと向かった。
 部屋にポツリと残された写真立てが、窓の隙間から漏れ入る風に危なげに揺れていた。


 ドアを開けた瞬間、風が中に吹き込んできた。外は結構な荒れ模様らしい。
 その風に立ちはだかるように、仁王立ちをしている一人の男。やたらと裾の長い、白を基調にした服を風に揺らしながら、腕を組んでこちらを見ている。
(ん……魔術師の、正装……か?)
 遥か遠く記憶の彼方、見た覚えがある。とはいえ、ほとんど儀礼用にしか使われていない現状、この服装を間近で見たのは、今が初めてだった。
「くっくっく……」
 眼前から笑い声が聞こえ、イェンは顔を上げる。男と目が合った。
 薄暗がりにぼんやり見える輪郭。濡れた前髪から、ぽたりぽたりと雫を垂らし、かけられた色眼鏡の奥の目がじっとこちらを見ている。そこに浮かぶ、絶対の自信とこちらへの圧力。
 男が、口を開いた。
「久しいな、イェン・オーリック」
「誰だ?」
 イェンは眉をひそめながら尋ねる。イェンの言葉に、男は一瞬驚いたような顔を浮かべ、やがてすぐにその顔に歪んだ笑みが戻った。
「ふん、そうか……俺が変わったか。そうだろうな、なにせ……この通り、貴様より先に魔術師になってしまったからな。正三階級魔術師オリヴァライヒ=グリューナー、と言えば分かるだろう」
 言って、濡れた髪をふっと掻き上げる。こつ、こつと歩を進め、家の中の灯りにようやく照らされたその顔。口の端を持ち上げ、つい、とメガネをかけなおす仕草。
「……誰だ?」
 せっかくかけ直したメガネは、五秒と持たずにずり落ちることになった。
「き、貴様……本当に覚えてないのか!? く……貴様にとっては学院時代、俺の存在など取るに足らないものだった……と、そう言いたいわけか」
 ぎり、とその男の手袋が音を立てる。イェンはその所作を見て、ふと思い至る。
「……オリヴァー、か?」
 イェンの言葉に、オリヴァーの顔がはっとこちらを見る。しばしの沈黙の後、その顔に徐々に感情が浮かんでくる。怒り。
「き……貴様ぁ……俺をからかっているのか……っ! 貴様は、いつもそうだったな。俺の言葉をいつも嘲り、謗っていた。変わってない……本当に変わっていないな、イェン・オーリック!」
 ぎん、と眼光鋭くこちらを睨むオリヴァーに、イェンは溜め息を吐きながら頭を掻く。オリヴァーだと思い至れば、なるほどオリヴァーも自分の記憶の中から変わっていない。
(……言ったら、面倒になるか)
 はぁ、とイェンは溜め息。
「それで……何の用だオリヴァー」
 敵意むき出しだったオリヴァーは、イェンの言葉にはっと我に返り、ふっと髪を掻き揚げながら首を振った。
「ふん……まぁ貴様のからかいなどに乗るほど俺は愚かではない。残念だったな」
「……それだけを言いに来たのなら、本当に足労痛み入るのだが……」
「何を寝言を。そも「何の用」とはよくぞ言えたものだな。罪人が」
 嘲るような口調のオリヴァー。イェンは、その言葉の一部にぴくり、と眉を上げる。
「罪人……?」
「自覚すらないか。貴様は、自分のやったことを分かってはいないらしいな」
 腕組みをし、忌々しげにそのまま拳を握るオリヴァー。眉根は寄り、瞑られた瞳が放つオーラが憎憎しげにイェンを突き刺す。
「……覚えていないとは言わさんぞ。リアさんを殺し、リアさんの研究を持ち去った……そのことを、よもや貴様も忘れたわけではなかろうになぁ!」
 オリヴァーの言葉が、扉から屋敷中に響き渡った。イェンは、はぁ、と溜め息をつく。
「やはり……その件か」
 自嘲気味の苦笑を浮かべ、ドアの縁に寄りかかる。体重に押され、扉がぎぃ、と軽く錆びた音を立てた。
「私を逮捕する動きは、雲散霧消したと聞いたがな」
「ふん、表向きはな。だが、それを諦めない人間もいた、ということだ」
 オリヴァーは言うと、ふっと息を吐き、その顔から歪んだ笑みを消した。
「俺は、貴様を赦せん。俺からリアさんを奪い、リアさんからその研究を奪った貴様を……一日たりとて赦したことはない」
「赦せ、とも言えんな……」
 イェンは肩をすくめる。そう言われても、仕方のないことなのかもしれない。それも含めて、全てをその身に被る覚悟で飛び出したのは事実だが、やはりそれでもイェンにはこのオリヴァーの言葉は辛い。
 オリヴァーは、ふんと鼻を鳴らした。
「リアさんの研究は、どうやら取り戻したと報告を受けたがな。長くかかったよ」
 その言葉に、イェンの目が開く。オリヴァーの方は見ずに、地面に視線を落としながら言葉を紡いだ。
「その報告は、いつのことだ?」
「ふん、つい先日だ。まったく、使えんやつを上層部も選んだものだ」
「……そう、か」
 オリヴァーの嘲りは聞かずに、イェンはもう一度溜め息をつく。
(当たってほしくなかった推理だな……こういうものほど、よく当たってしまうか)
 イェンの無言を驚きと失意と受け取ったのか、オリヴァーは肩を震わせる。
「くっくっく……声も出ないか。そうでなくては俺としても言った甲斐がない」
「……それで、あとは私の逮捕、というわけか?」
 イェンの言葉に、オリヴァーは震わせていた肩を止め、すっと目を細めた。
「察しがいいな、イェン・オーリック」
 その口が、にやりと歪む。
「だが、まだまだだ」
 組んだ腕を解き、すいっとその腕を持ち上げ、イェンを指差した。
「言うとおり、俺のすべきことは貴様の確保だ。だが、それだけで俺が満足できると思うか? 俺のこの五年の間に抱いたものが、それで納得できるというのか?」
「しなければ……どうなる?」
 眉を顰めるイェンに、オリヴァーの歪んだ笑みが近づく。色眼鏡の向こうに見えるオリヴァーの瞳が、爛々と光る。
「さぁな。それは、自分で考えることだろう? 俺から言うことじゃない」
 嘲りの口調でそれだけを言うと、オリヴァーはふっともう一度笑い、一歩後ろへ。
「とはいえ、俺は優しいからな。情けをかけてやろう……イェン・オーリック。今日のところは、これを言うに留めておいてやる。また改めて来てやるから、その時までに覚悟を決めておくんだな。その時に、俺がリアさんに成り代わり、貴様に罰を下してやる」
 ばさりと、魔術師の正装をはためかせて、オリヴァーはイェンに背中を向ける。その背中越しに、笑い声とともにオリヴァーが話しかけてくる。
「逃げようなどとは思わんことだな。この街の周りはもう、包囲してある。それに、万が一貴様が逃げた場合、俺はこの街を全て更地にしてでも貴様を探すつもりだ。その意味は、いかに魔術師ではない貴様でも分かることだろうな?」
 ふん、とつまらなそうに肩を震わせて立ち去ろうとするオリヴァー。
「オリヴァー」
「気安く話しかけるな」
 声をかけたイェンが言い終わるより先に、オリヴァーは遮るように言い放つ。そのまま、つっと顔だけを振り向かせ、見せ付けるように腕を上げた。
「言ったはずだ。俺は、リアさんを奪った貴様を赦すつもりはない。それに俺は、正三階級魔術師だ。貴様は魔術師じゃない」
 言い切り、こちらを振り返らずにオリヴァーは雨の中を歩いていった。
 その背中を見送りながらイェンは、
(ああ、それを示すためにわざわざ正装なんぞを着てきたのか)
 などと、どうでもいいところで納得したりした。

 数日前から降り続く雨の音が、耳の奥まで入ってくるように煩かった。


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