「本当ですか!?」
町の警邏から知らせを聞いたフェリシテは、がたりと椅子から立ち上がり、身を乗り出した。テーブルに突いた手が、傍らに置いた紅茶のカップをかたりと揺らす。
警邏隊の青年は少し身を引きながら、なおも報告を続ける。
「え、ええ。最近街にきた女医さんがいるじゃないですか、あの人が知らせてくれたんですよ」
「女医さん……ケーテさんですか」
「ああ、そんな名前だったですかね。そうですそうです、ケーテさんです」
フェリシテの言葉にうんうんと頷く青年。
(何故、あの人が……? イェンさんのところに居た、っていうこと……なのでしょうか)
頭の隅を掠めた思考に、脳がちりちりするような感覚。フェリシテはふっと息を吐いて、報告にきた青年を見遣る。人のよさそうな、悪く言ってしまえば少し緊張感のない、街の青年。今まで平和そのものだったこの街、そしてその警邏隊を象徴するかのような、のほほんとした人柄だった。
唐突に、その青年がぽんと手を叩いた。あーあーと宙を見ながら言葉を接ぐ。
「あー、そう言えばあの女医さん、少し手に血が付いてましたね。なんか、魔術師さんが怪我されたとか」
「……え?」
青年の話に、フェリシテの目がきょとん、としばたたかれる。
(けが、された……穢された? 血が出るくらい……?)
頭を過ぎったとんでもない想像を、慌ててぶんぶんと振り払う。自分はなんていうことを考えてしまったのか。
「……怪我!?」
そこに思い至って、改めて驚く。ばんと机が叩かれ、紅茶のカップが倒れて中身がぶちまけられた。
青年は未だ何か言っているが、フェリシテにはもう聞こえなかった。どくん、どくんと心臓が騒がしい。ほとんど上の空で返事をし、報告されたことを聞き流しながら窓を眺める。広がる緑の向こうに街、そしてその更に先にあるであろうイェンの館。
「……わかりました。その後の処置は?」
未だその場に立ったまま、フェリシテは青年に尋ねる。領主として、事が起きたときにその担当の人間に聞く、いわば手続きのようなやり取り。
「あ、はい。一応盗難物はリストアップされてますが、二、三人が現場の検証に。あとは、このリストを元に街の商店なんかを押さえに行ってます」
青年の報告にもう一度「わかりました」と頷き、フェリシテは再び椅子に腰をおろした。
「あの……フェリシテさん、大丈夫ですか?」
少し疲れているように見えたのだろうか、心配そうに青年がフェリシテに話し掛けてくる。フェリシテは、にこりと微笑んだ。
「ええ、心配ないですよ。引き続き、捜査を頼みます」
「は、はい」
フェリシテの言葉に安心したのか、少し表情を緩めながら礼をして、青年は部屋を出て行った。
扉が閉められるのを確認してから、フェリシテはふぅー、と長い息を吐く。ちらりちらりと窓の外に目を遣り、また机の方に視線を戻し、を数度繰り返した。立ち上がろうと椅子の肘掛に手を伸ばし、力を入れようとして、またやめる。
(留守にするわけには、いきませんよね……)
警邏隊を指揮する権限は、領主にあるとされている。何かことが起きたときには、報告を聞き、場合によっては指示を出さねばならない。
フェリシテにはその遣り方も分かっているし、おそらく方向性を間違えることもないであろうという自覚はある。
(でも……)
肘掛に手をつき、ぐっと力を入れる。フェリシテの腰が椅子から少し離れ、再び脱力した。腰を降ろしてから、また窓の向こうを眺める。
ふと、フェリシテは横に立つ人影に気付く。
「当主様」
「クリストファ……?」
机の上を布巾で拭いながらこちらを眺める執事に、フェリシテは少し驚いてしまう。そんな彼女の様子には拘泥せず、クリストファはごしごしと、こぼれた紅茶を拭いていく。ぽつりと、漏らした。
「報告なら、私でも聞けますな?」
クリストファの言葉に、フェリシテは少し驚いてしまう。そして、その顔はすぐに苦笑いに変わった。
「そういうわけにも、いかないでしょう? 私は、領主です」
言って、もう一度深く椅子に座りなおそうとする。その手を、静かにクリストファが掴んだ。
「フェリシテ」
「……へ?」
クリストファから出た言葉を、彼女は咄嗟に理解できなかった。クリストファは、優しく穏やかな笑みを浮かべながら、フェリシテに言う。
「私は、三代シャルロワ家に仕えてきたのです。この街に領主アルベール=デュ=ベレー=シャルロワ様が赴任してきたとき、その御子息フランシス様の奥様には赤子がおりました」
突然話し始めた昔話に、フェリシテはただきょとんとするばかりだ。そんなことに構わず、クリストファは静かに目を閉じた。
「その子が生まれたとき、私は六十でした。私の妻エリアは子を作る前に他界してしまった」
「あ、あのクリストファ……何を?」
フェリシテの言葉は、無視される。クリストファは天井を見上げながら続けた。
「ですから、子が生まれ、育っていくのを間近で見、その世話をしたのは私の生涯で一人しかいないのです」
そう言って、視線を目の前の少女に向ける。その腰に、静かに手を添えてその場に立たせる。ぽんと、フェリシテの肩に手を置いた。
「私は……その子が領主として生きるならばそのサポートを、身を砕いてでもする……そう決めております」
そこまで言って言葉を切り、クリストファは改めてふっと笑った。白い髭が、上品に歪む。
「だがね、フェリシテ。その子のことを、私は娘のようにも思っている。その子が、我慢して、縛り付けられてほしくないのだよ」
笑ったまま、そっとその肩に外套を羽織らせる。フェリシテは、ただ呆然と為すがままになっていたが、外套の重みを感じてはっと我に返った。
「クリスト……ファ?」
「行ってきなさい、フェリシテ。一人の、少女として。魔術師殿が心配なのだろう?」
にっと、クリストファが笑う。フェリシテは、外套の襟を顔の方に手繰り寄せた。
「一人の……少女と、して?」
その言葉の意味することは。フェリシテは、少し考えて、またクリストファを見た。赤くなった顔をケープで隠して、むーっとクリストファを睨む。
「まったく……何を言うんですか」
未だ優しく笑うクリストファに、表情をわざと険しくしていたフェリシテも笑う。
「クリストファ……」
「なんでしょうかな、フェリシテ様?」
「……ありがとう」
その言葉に、クリストファはただ黙って微笑を浮かべるだけだった。その白髪の老執事にもう一度「ありがとう」と告げると、フェリシテはケープと髪、そしてスカートを翻し、部屋の外へと駆け出した。
彼女の向かう先は、街を挟んで更にその先にある、丘の上の小さな館。
「では、一応現場は検めさせていただきましたので、自分たちは失礼します!」
「ああ、手数だったな」
律儀に報告をしてくる警邏の人間にイェンが軽く謝辞を述べると、彼らはぴっと敬礼をしてからそそくさと辞去していった。その後姿を見送りながら、イェンは軽く苦笑する。
(まぁ……私が把握していればいいか)
好奇心丸出しの目で屋敷の中をキョロキョロとし、床に落ちているものを拾い上げては「へぇ」とか「ほー」とかしきりに繰り返していた二人の若い警邏隊。結局、動けないイェンの代わりに部屋の検分を頼んだものの、その成果の如何ばかりか。
期待するのが酷というものだろう。
「……むぅ」
自室の椅子に腰掛けながら、イェンは唸った。背もたれがぎしりと音を立てる。自然、脚が持ち上がり、白い包帯が目に飛び込んできた。その脚をじっと見つめる。
「どうしたものかな……かがまない方がよかろうが」
がしがしと頭を掻き、そっと包帯の巻かれた脚を下に下ろしていく。ゆっくり、ゆっくりと距離が近づき……やがて、ゼロになった。
「……ふむ」
そのまま、今度はぐっと体重をかけてみる。怪我をした脚で身体を支えながら、身体を思い切り椅子から浮かせ……。
「……っ!」
再び椅子に倒れこむ。やはり、思い切り体重をかけるとそこそこに痛い。包帯を見る。少し滲んだ赤。
(傷口が開いたか……)
そんなことをぼんやりと思いながら、イェンはもう一度。今度は少し慎重に身体を立ち上がらせてみる。膝の辺りにじくりと鈍い痛みが走るが、それを何とか堪え、彼は再び二本の足で立った。
立ち上がった状態で、改めて周りを見た。
「さて……どうしたものかな」
腰に手を当てて、げんなりとした表情。机の縁に手をつき、指でこつこつと叩く。
(む、部屋の隅に埃が……ああリア、窓は縁も拭けといつも言っているではないか。む、この位置に本棚があっては、日に灼けるな……少し北側にするか。そういえば夏物もそろそろ出さんとな。本のカバーもたまには磨かねばならんか。……ケーテは結局カップは洗ったのか……? )
きょろきょろと周りを見回せば見回すほどに、目に付くところが増えていく。きりがない、とイェンは天を仰ぎ、極力部屋の様子を見ないようにした。
「いっそ、模様替えでもしてしまうか……?」
呟いて、歩き出してみる。脚に、少しの鈍痛。
「……無理か」
自嘲気味に笑う。
と、部屋の外、廊下の向こうからこつこつこつ、と早足で階段を駆け上ってくる音が聞こえてきた。
「……ん?」
何事かとイェンはドアの方を向く。まだ、足音の主は階段を上りきったくらいの位置だろう。息を潜ませ、ドアの向こうを見ながら、イェンはゆっくりそちらへ向かう。
(誰だ……? まさか、また……来たのか?)
手が、自然と汗ばんだ。少し、荒い息も聞こえる気がする。この狭い廊下を走っているのか、短い間隔の足音がさらに近づいてきた。床の軋みもはっきりと聞こえる。誰だ。誰なんだ。
ドアの影から、人影が飛び出してきた。
「い、イェンさん……っ!?」
銀髪をなびかせ、荒い息と共に肩を上下させた少女。イェンは、一瞬それが誰だか分からなかった。声の迫力に圧され、少したたらを踏んでしまう。
「……フェリシテ?」
数秒の後、ようやく少女の名前を思い出す。名を呼ばれた少女は、少し苦しそうに胸を押さえながら、汗ばんだ顔を隠しもせずに向けてくる。
「だ、大丈夫ですか!? その、あの……ち、血が……!」
「血……?」
言われて、はたと気付く。そう言えば、廊下がスプラッターなことになっているとケーテも言っていたような気もする。少しだけ苦笑し、顔を青くしているフェリシテの横を通って廊下に出てみる。
「……ふむ」
廊下に転々と付いている紅。ほんの僅か、香る鉄の香り。
「イェン、さん……? 大丈夫、ですか?」
はぁ、はぁと息を必死に整えながら、心配そうに聞いてくるフェリシテ。さもありなん、とイェンは苦笑する。この廊下だけ見てみれば、どれほどの惨状かと青くなるのは、無理からぬことだろう。
「大丈夫だ、心配ない」
目の前の少女を安心させるべく、できるだけ優しい声で言ってやる。
「……はぁぁぁ……」
その言葉を聴いた途端、フェリシテはへなへなとその場にくずおれた。
「お、おい、フェリシテ!?」
「あはは……ち、チカラが……はぁ……抜けちゃいました……はは……はぁ……」
ドアに寄りかかりながら、こちらを見上げて言うフェリシテ。そのまま、力を喪ったようにかくんとうな垂れながら、上下する肩を抑える。
「本当に……よかった、です……はぁ……怪我した、って聞いて……走って、来ちゃいました……よかった……ふぅ……」
もう一度こちらを見上げ、笑う。イェンもやれやれ、と苦笑で返し、そのフェリシテに手を差し伸べた。フェリシテは伸ばされた手に自分の手を伸ばし、触れる前に引いた。
「あの、イェンさん……その、ごめんなさい」
「どうした? 大丈夫か?」
気遣うイェンに、フェリシテは頭を垂れる。
「話を聞いたのに……こんな風に、結局泥棒に入られてしまって……私、せっかくあなたから話を聞いていたのに、『わかりました』って言ったのに……」
「……何を言っているんだ」
フェリシテの言葉に、イェンは一瞬面くらい、次いでふっと苦笑する。引っ込めた彼女の手を、半ば無理矢理に掴むと、ぐいと引っ張って立たせた。
「きゃっ……!?」
とっさのことに、目を丸くするフェリシテ。そんなフェリシテに、イェンは肩をすくめた。
「別にそれは、フェリシテのせいではないだろう? 誰のせいかと言われたら、それはあの人影のせいだ、としか言えまい」
言って、ぽんぽんとフェリシテの頭を撫でてやる。フェリシテは「ひゃっ」と一瞬肩をすくめ、びっくりした顔でイェンを見る。
「……あ、の……頭……?」
「ん? ……おお!? すまんすまん、なんか無意識に……」
フェリシテに問われ、イェンは慌ててその手をフェリシテの頭から離す。ぼりぼりと誤魔化すように頭を掻きながら、言った。
「いや、どうにも最近リアにこうしていてな……何となく、やってしまった」
「え……あ、いえ……あ、リア……さんに?」
上目遣いで尋ねてくるフェリシテ。イェンはふっと苦笑いする。
「まぁ、リアにやるのにもよく考えたら理由はないのだがな。……うむ、本当に理由がないな……何なのだろうな?」
「……」
フェリシテは応えず、何かを考えているようだった。イェンはつい、とフェリシテから目を外しながら、階下に寝ているであろう金髪の少女を思い出す。
「そのリアも今は熱で倒れているがな」
「え?」
きょとん、と。フェリシテが驚いたような声を上げる。
「どうした? 何か変なことでもあったか?」
「いえ、あの……リアさん、表に出て、洗濯物を……」
「……え?」
今度は、イェンがきょとんとする番だった。フェリシテの言っている事の意味を理解するのに、数秒を要する。そのくらい、埒外であったこと。
イェンは、もう一度フェリシテに聞いてみる?
「何……だと?」
「いえ……だから、リアさんが……表で洗濯物を取り込んでたのを、ちらっと見ました、けど……?」
最後まで聞いている暇はなかった。
イェンはフェリシテの言葉が終わるより先に、だっと走り出した。脚がずぐんずぐんと鈍痛を訴えるが気にしない。
(……バカかっ……あの、リアは……っ!)
風邪でふらふらだったリアの姿が脳裏に浮かぶ。寝ていれば、ある程度楽にはなるだろうが、こんな短時間で治るわけもない。だるいということは自分が一番よくわかっているだろうに。
階段を駆け下り、ホールを駆け抜け、そのままドアの外に飛び出した。
「リア……っ!」
果たして、そこには紅潮した顔を隠そうともせず、取り込んだ洗濯物をたんまり入れた籠の前でへたり込むリアの姿があった。
「お前は……何をしているんだ……!」
「あ……イェン、様……」
近づいてくるイェンにようやく気付いたのか、リアが顔を上げる。目は潤み、鼻の頭も頬も赤い。どう見ても風邪の症状そのままだった。いや、下手をすると、先ほどよりも悪くなっているかもしれない。
「まったく……!」
ぐい、と。リアの腕の下に首を通し、殆ど力任せに担ぎ上げる。ぐにゃりと力の抜けたリアの体重が、イェンにのしかかってくる。
「あ、洗濯物……が……」
「お前のすべきことは、洗濯物ではない!」
怒鳴られ、リアは口をつぐんでしまう。そのまま、無言で家の中まで入る二人。
「い、イェンさん……?」
ようやく階下に下りてきたフェリシテが心配そうに二人に駆け寄った。そのフェリシテに手伝ってもらい、リアを再び布団の中に詰め込む。
「……本当に、何を考えているんだ」
ぶつぶつと、イェンは言う。ベッドの脇でリアの額に濡れた布巾を当てながら、それにフェリシテが応えるように呟いた。
「……何となく、分かる気がします」
「ん?」
「……いえ、何でもないです」
フェリシテは優しい顔で、汗で濡れたリアの髪を撫でる。その様子に、イェンの顔から険しさが消え、ふぅ、と溜め息が一つ漏れた。
「やれやれ……」
そんなイェンに、フェリシテはふふ、と微笑むと、そっとベッドの側から離れ、立ち上がる。
二人を眺め、フェリシテは一度ぺこりと頭を下げた。そして、くるりとこちらに背を向ける。
「さて……私、帰りますね」
「ん……? ああ、そうか。すまなかったな、相変わらずばたばたと……」
何となく決まり悪そうに頭を掻くイェンに、フェリシテは背中を見せたままふるふると首を横に振った。彼女の綺麗な銀髪が、それに少し遅れて左右に振れる。
「送っていくか?」
イェンの言葉に、フェリシテはくすくすと笑いながら、振り向いて彼の足を指差す。
「その脚で、ですか?」
「む……」
確かに、先ほどのダッシュで、白ところにより赤だった包帯は、赤一色になっていた。イェンは、はぁ、と自嘲気味に嘆息。
「すまん、無理だな」
「いいんですよ。……うん、いいんです」
くるりと、もう一度身体をこちらに向けるフェリシテ。少しいたずらっぽい笑顔で、言う。
「怪我人に鞭打つ女王様になりたくないですし」
「……私もそれは御免被りたいな」
フェリシテの冗談に、イェンも肩をすくめる。
三度、フェリシテの体がくるりと翻った。そのまま、ドアの方まで歩いていく。
扉の前で、フェリシテは一度歩を止めた。すっと顔を上に向け、一呼吸。
「では……イェンさん、リアさん。お二人とも、また」
「ああ、次来るときはもう少し落ち着いているようにしよう」
イェンの返事は聞こえたのだろうか。フェリシテは一度、こくりと頭を下げると、ドアの向こうに歩いていった。
ぱたんと扉の閉まる音と時を同じくして、イェンの傍らでベッドが動いた。
「イェン様……」
布団から顔の上半分だけを覗かせ、こちらを窺っているリア。イェンは、ふぅ、と溜め息。傍の椅子に、身を投げ出すように腰を下ろした。
背もたれに体重を預けながら、イェンはぼそぼそとした声で問いかけた。
「だるくない、はずがないな?」
「……はい」
少しは誤魔化すかとも思ったが、意外にもあっさり認める。ぎしぎしと、椅子の背が軋む音だけがしばらく辺りを支配した。
イェンは、天井を見上げる。目を閉じる。
「何故、素直に休んでいなかった」
溜め息と共に言葉を紡ぐ。強くは言わず、ただ淡々と。しかし、聞き流せないくらいには力を込めて。
その問いに、リアは、しばらく応えなかった。目を閉じたまま、イェンは黙って答えを待つ。
ぎぃ、ぎぃと、木の椅子が音を立てる。その音だけの空間。
その空間が、震えたような感覚が走った。
「……ん?」
イェンは目を開き、天井からリアに視線を移す。
「…………」
リアは、ただ黙っていた。
その赤色の瞳から、はらはらと涙が溢れていた。
その涙をぬぐおうともせず、ともすればまるで気付いていないようにすら思える。ただ、次から次に水のせり上がってくる瞳をじっとこちらに向けて。
リアが、口を開いた。
「……ったん、です……」
「……何?」
リアの口から漏れた細い声。未だ溢れ続ける涙。
「……怖かった……んです……」
「怖かった?」
リアの言葉は理解できなかった。イェンは聞き返す。しかし、そんなイェンの言葉も、リアには聞こえていないようだった。ぽつり、ぽつりと、時折喉を詰まらせながら、涙のように口から言葉が溢れてくる。
「私……いつも、いつも……イェン様の、お役に……立てなくて……」
震える声を、精一杯支えるリア。自分の涙に溺れるように、苦しげな表情を浮かべながら。
「これで、私……何も、できなくて……できなく、なって……っ……そう、なるのが……怖、かったん……です……っ」
ややあって、リアの顔が、くしゃりと歪む。涙でボロボロにふやけた顔。それでも、涙で満ちた赤い瞳は、じっとイェンを見つめている。
「だから……わ、私、家の……こと……は……っ、でき……っ、る、から……っ……それ、しか……できない、からぁ……っ!」
吐き出すように言うと、リアは顔を布団に押し付けた。そのまま、上下する肩を、イェンはただじっと見つめていた。
その肩から、頭から、くぐもった声が聞こえてきた。
「わ、たし……っ……イェン様に……イェン様に、とって……っ……いらないものに、なりたく、なかった……っ!」
リアの震える声が、部屋に響く。ゆらゆらと、部屋の灯りが揺れる。
金髪灼眼の少女は、ぎゅっと自らの身体を包む毛布を抱きしめ、引き寄せた。
「私、が……イェン、様の……イェン様の……そばに、いるっ……た、めには……っ……私、そう、するしか……する、しかなかった……っ、ん、です……っ!」
「……」
イェンは、何も言わなかった。何も言えなかった。ただ、椅子に縛り付けられたかのように、体が動かない。
やがて、部屋の中に聞こえた嗚咽が、少しずつ穏やかなものになっていった。泣き疲れたのか、風邪ゆえにか、深く眠っているらしいリア。ぎゅっと抱いた毛布もそのままに、規則正しい寝息を立てる。
ようやく、金縛りが解けたイェンは、しかし椅子から動かず、ただそこで寝入る少女の姿をずっと見ていた。
「一雨……来そう、ですね」
曇天の空を見上げながら、フェリシテは呟いた。
極力、何も考えずに。ただ、無心に空を眺めながら、歩いている小さな少女。ミルフィスの領主。
(こんな天気では……あの場所に行っても、仕方ない……かな?)
森の奥の泉を思う。いつ、雨が降るかも知れないのに、水浴びをする気にもなれなかった。
目の前には、まっすぐの一本道。辺りは一面の碧が風にさざめいている。そんな一本道で、フェリシテは、自分が迷子になったかのような感覚を覚える。
ざぁっと、ひときわ強い風。
「きゃっ……!?」
思わず、歩みを止め、その場によろめいてしまう。何とか倒れずに、大地を踏みしめるフェリシテ。
この地方には、珍しい天気。ここ数年、少なくともフェリシテが覚えている中にはない、悪そうな天気。その中に、たった一人放り出されたようにも思える。足元の草がざわざわと音を立てた。
自分の館までは、まだまだ距離がある。
フェリシテは、一度振り返ろうとして……やめた。ふっと、目を閉じて息を吐く。
(……目の前に、道は一本しかありませんから、ね)
ぱっと、目を開いた。自分の家へ、領主の館へ続く道が、そこに伸びている。フェリシテは、もう一度息を吐くと、その先へ一歩、また歩き出した。
ごうごうと、風の音を窓越しに聞き、カーテンを閉ざす。
まだ夕時だというのに、薄暗くランプの明かりに照らされるだけの部屋の中。ケーテは窓際からかつ、かつと自分のテーブルに歩み寄る。
テーブルに詰まれた、紙の束。あと数刻後には、これは彼女の手を離れることになっている。
その中の一枚を取り上げた。ランプの明かりに、ゆっくりと翳す。
「本当に……変わらない、綺麗な字……」
自分は、なにをしているのかとケーテは自嘲した。名残を惜しんでもいられない。状況がそれを許さない。
「……騙すことに、何も感じなくなったらおしまい、よね」
ぱらり、と紙を机の上に放り投げながら、ケーテは呟いた。
「……戯れを」
物陰から、声がした。その声に、ケーテは肩をすくめる。
「……そうね、これで……私のできることはお仕舞い。後は、これを間違いなく届けて頂戴」
ぱんぱん、と机の上の紙を叩くケーテ。人影は、静かに頷いた。
「うまく……いくかしらね」
「いきます……いかせますよ。そのために、今までやってきたのでしょう?」
「……あなたにも、相当無茶をさせたわね」
ケーテが言うと、人影はふるふると首を振った。
「人員が足りない分を、補うと言ったのは私です。貴方の目的のために」
「私たち二人だけだもの……まぁ、選択したのは私だけどね」
しばらくの沈黙。人影が、ゆらりと机の傍に近寄り、紙の束を手に抱える。それを見て、ケーテはふっと小さく笑った。
「さて……そろそろ、向こうも行動を起こすかしら」
「……でしょうね」
こくりと頷く人影は見ずに、ケーテは窓の方に歩く。カーテンをそっと手で払った。
「細工は、流々。仕上げをごろうじろ、ね」
強い風の吹き荒れる外の景色に、ケーテは小さく呟いたのだった。
その風を身体に受けながら、不敵に笑う影があった。
高いところから、眼下を見下ろす。この山の麓に、小さな町が一つ。
「ふん……なかなか上等なところではないか。罪人の住むところにしては出来すぎなくらいにな」
にやりと歪めた口元から、そんな言葉が漏れてくる。色の付いたメガネのレンズの向こうに、その町をぎっと睨む瞳。公認法定魔術師の正装がばたばたと風にうるさい。
「いつまでも、安穏としていられると思うな、罪人……俺から、全てを奪った罪人よ」
笑みが消え、若干苛立たしげにぐりぐりと足元の石を踏みにじる。土の道に、ぐいぐいと石がめり込んでいった。土に大半を埋められ、その存在が殆ど見えなくなった小石を見て、満足そうに頷く。
男はくるりとその場で振り返った。
「石頭ジジイどもの裁定など待っていても埒が明くものか。近々、行くぞ」
男の前に列を為した集団は、一度男の方を見て頷いた。そして、すぐにまたそれぞれの思い思いの方向に顔を向ける。あるものは仲間と話し、ある者は己の格好を気にし、またある者は誰かに手紙をしたためていた。
男は、もう一度くるりと振り返り、町へと視線を戻す。
「待っていろ……もう少しだ」
くっくっく、と、男は勝利を確信した笑みを浮かべたのだった。
空には、一面黒い雲が立ち込めていた。
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