第六章 躍る咎人


「ケーテ!?」
 台所に駆け込んだイェン。そこで目に飛び込んできた風景。
 床に倒れ付すケーテと、その上に大量に降り注いだガラスの破片。その破片はどこから来たか。風を感じて窓を見遣る。
「……風通しがよくなったな」
 見事なまでに破砕されていた。窓枠から破壊され、辛うじて繋がった下段の蝶番(ちょうつがい)を支えに、ぷらぷらと揺れている窓「だったもの」。その光景に、少しの間呆然としてしまう。
「……うっ……く」
 うつ伏せに倒れたケーテの背が、ピクリと動いた。イェンは慌ててそちらに駆け寄る。靴の裏に、付いた膝にガラスの破片が食い込むが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「ケーテ、無事か!?」
「っは……あ、い、イェン……?」
 頬を押さえながら、その場に起き上がるケーテ。どうやらガラスの破片で切ったらしく、白い頬に一筋の赤い線が走っていた。イェンは、ケーテの肩に手を添える。
「……っつ」
 ケーテの顔が苦痛にゆがんだ。イェンは慌てて手を離す。
「だ、大丈夫か?」
「ん……平気。ちょっと、これが、ぶつかっただけ……」
 ケーテは笑いながら言って、床にごとりと転がった煉瓦を手に取った。おそらくは、これで窓を叩き壊したのだろう。ケーテは、煉瓦を見つめた瞳を、イェンの方に向け直す。
「誰か、見えなかったけど……誰かが、入ってきて。私がいるのに驚いたのかしらね。そこから、走って出て行ったわ」
 ケーテの指の向こうには、開け放たれた勝手口。その向こうに丘の緑が広がっていた。イェンはくっと舌打ちをしながらそちらに走る。既に手の届く範囲からは逃げ出しているであろうが、それでも。
(……しかし、何故ケーテがいるのに此方から侵入を図った……?)
 疑問が、頭を掠めた。台所は、外がよく見える。返せば、外からも人の有無程度なら一目瞭然だろう。外からの人間をケーテが認識できなかったのは詮方ないかもしれない。しかし、外からの人間がケーテに気づかなかったとは思えない。
 そんなイェンの思考は、館の中からの声で中断させられた。
「い、イェン様っ!?」
「リアっ!?」
 屋敷の中を振り返り、聞こえてきた声の主の名を呼ぶ。ケーテは混乱したようにただその場に立ち尽くすだけだ。イェンは唇をかみながら、今来た道を舞い戻る。ざりざりと、足の裏がガラスを踏みしめる音が耳にうるさい。
 台所を抜け、ダイニングを通り、中央ホールへ。そこに、金髪の後姿があった。
「リアっ!」
 イェンはもう一度リアの名を呼ぶ。リアは驚いたようにこちらを振り返ると、再び眼を上方に戻す。イェンもリアに並ぶと、そちらを見遣った。
「い、イェンさま……書斎に、その、人の影が」
 少し怯えたような顔で、二階、書斎の入り口を指差すリア。イェンはその言葉に、ぱっと背中を押されるように走り出した。
 台所でケーテが見たという人影、そしてリアが今見たという人影。時間的に、同一ではありえない。と、するならば……。
(くっ、台所のは、陽動だったか……!)
 まんまと踊らされてしまった自分が悔しい。しかし、今はそれを悔いている場合ではない、とイェンは階段を駆け上りながら頭を振る。嫌な予感がぞくりと背中を走る。
「……間違いであってくれ……!」
 半ば祈るように口の中で叫びながら、書斎の戸口から中を窺う。
 果たして、イェンの想像通りだった。床に、紙や本が散らばっている。書棚が荒らされ、机の引き出しは開けられていた。おおよそ、開けなかったところはないというほどに全てを引っ掻き回された部屋。内装には傷も付いていないし、窓が叩き割られた形跡もない。そういえば、昨日開けたまま鍵を閉めてなかったかと、真っ白な頭にそんなことが浮かんできた。
 その窓は開け放たれ、その窓枠に引っ掛けるようにして紐が釣り下がっている。これを手掛かりに人影はここまで登ってきたのか。イェンは、窓に寄りながらその紐を手でもてあそぶ。
「……っ!?」
 窓の外に身を乗り出したところで、視界の端、館の影に人影が見えた。角の向こう、勝手口の近く。よくは見えないが、人の形をした何か。
「っ……ケーテ! そこだ、近くにいるぞ!!」
 イェンは、未だ台所にいると思われるケーテに聞こえるように大声を張り上げる。その声に、人影はびくりと肩を震わせて館の影に走っていく。
「くそっ……!」
 イェンは手に持った紐を投げ捨て、再び一階へ向かおうとした。
「イェン様!」
「っとっとっと……っと、リア?」
 部屋から出るや否や扉の影から現れたリアに、イェンは思わずたたらを踏んでしまう。よろけかけた体を何とか立て直しながら、金髪の少女と向き合う。
「どうした、リア」
「い、イェン様のお部屋が……お部屋も……!」
 リアは狼狽しながら、奥……イェンの寝室の方を見る。イェンはそのリアに頷くと、自分の部屋へと駆けつけた。
「……これは、また随分と気合を入れて物色したものだな……」
 部屋の中を見、イェンはがっくりと肩を落とした。書斎と同じように窓が開け放たれ、そこから吊り下げられた紐。部屋の中は無秩序に散らかされている。
 先ほどと同じように窓から身を乗り出して外を見てみるが、誰もいない、何も見えない。いつもどおりの外の風景が広がっているばかりだ。
「イェン様……」
「……リア」
 戸口のところに立って、おずおずとこちらを不安げに見つめるリアに、イェンは苦笑しながら肩をすくめた。部屋の入り口に向かって歩く。
「下に直行していたところで、今更追いつけなかったさ。お前のせいで捕まえるチャンスを逃した、などとは考えなくていい」
 リアの横を通ってするりと部屋の外に出、イェンはぽんぽんとリアの頭に手を置いた。強張ったリアの肩から、すっと力が抜けていく。
「さて……台所と、書斎と、私の部屋……少なくとも三人か……」
 かつ、かつと階段を踏みしめながら、イェンは一人ごちる。その後ろを、とたとたと付いてくるリア。
 一階まで降りたところで、ケーテが肩を庇いながらダイニングから出てきた。
「イェン、ごめんなさい……二度も」
「いいさ。複数人でこられては、仕方のないことだ」
 申し訳なさそうに言うケーテ。イェンははぁ、とため息をつく。
「とにかく、相手の目的がわからん。何か盗られたか、何を盗られたか。調べてみるか」
 イェンの言葉に、リアとケーテは静かにこくりと頷いた。


 リアに寝室の調査を任せ、イェンは一人書斎へ赴いていた。
「……はぁ」
 部屋の様子に、改めて溜息をつく。何か盗まれたにせよ、何も盗まれなかったにせよ、この部屋を片付けるのはなかなかに重労働だろう。短時間にここまで散らかすのも、相当大変だっただろうなどとすら考えてしまう。
(いや……姉さんはいつもこのくらいだったか)
 思い出し、独り苦笑するイェン。開け放たれた窓から入り込む風が、床に落ちた本のページを繰る。屈みこんで、それを拾っていく。一つ、二つ。五つを超えたところで、イェンはそれを机に置いた。そのまま、荒らされた本棚を見遣る。
「……ん?」
 何か、違和感を感じた。本棚が荒らされているから、普段と違うのは当たり前なのだが、それにしても何かが足りない。イェンは、頭の中で以前の書斎の佇まいを思い出す。何が違うのか。
「……そうか」
 書棚の端を見遣ったところで、イェンはようやく思い至る。そこには、イェンの書き溜めた論文と「それ以外の論文資料」があったはずだ。
 それが、ない。
 まったく無いわけではないが、以前の三分の一以下になっているその紙の束の前に歩み寄る。イェンはぱらぱらと中を検めた。
「……く、やはりか」
 イェンの論文も相当無くなってはいたがまだ残っているものも多い。だが、リア・オーリックの書いたものだけが、見事にすべて抜きさられていた。イェンは歯噛みする。
 予想してしかるべきだったのかもしれない。天を仰ぐ。
(金になると思って持っていったかもしれない……というのは、希望的観測だろうな……)
 そんな甘い考えを持ってしまう自分を、少し笑う。まだそんなことを言えるのか。イェンはふるふると頭を振った。
(くっ……)
 ぐっと拳を握る。こういうことは充分起こり得た。それが実際に起こったということ。それは、取りも直さず自分が事態を甘く見ていたということに他ならない。
「あ、あの……イェン様」
 突然、部屋の入り口から声をかけられ、イェンはそちらに慌てて顔を向ける。戸口に立って、こちらをおずおずと見つめている金髪の少女。少し眉が下がっているのは、悪いことがあったからか、それともイェンの様子に怯えたか。
 ふっと息を吐き、イェンは努めて穏やかな顔をする。リアを不安がらせても、詮方ない。
「ん、どうしたリア? 寝室に、なにかあったか」
「えっと、あの……」
 イェンに問われ、リアは何故か決まり悪そうな顔になり、もじもじし始めた。胸の前で手を合わせ、指同士をぐにぐにとするリアに、イェンは怪訝な視線を向ける。
「どうした、何が盗られていた? 別にお前が悪いわけではないのだから、そう恐縮することもないだろう?」
 イェンの言葉に、しかしリアの表情は変わらず、ちらりとこちらを見るに留まる。そのまま、ぽそぽそと口を開いた。
「あの、ですね……?」
「ああ?」
 小さいリアの声を聞き取ろうと、イェンはリアへと歩を進めながら耳を傾ける。リアは、一度うん、と頷くと、ばつのわるい笑みを浮かべた。
「えっと、部屋にもともと何があって、何が盗られたか、分かんないんです……あはは」

 びたん。

 イェンはリアの言葉に、ポケットに手を突っ込んだまま受身もままならず、地面と熱烈な口付けをする羽目になった。
「い、イェン様っ!? あの、その、す、すいません……」
「……いや、大丈夫だ……」
 その場に跪いてイェンを気遣うリアに、イェンはむくりと起き上がり、苦笑しながら言う。
「そう、だな。それならば……リアはこの書斎をかたづけてくれ。私が寝室の検分をする」
「申し訳ありません……」
「いや、私の考えが足りなかった。気にしなくていい」
 イェンはぽんぽんとリアの頭を撫で……そして、気付く。
「……ん? リア、お前ちょっと熱くないか?」
「へ?」
 きょとんとするリアの、その頬は少し朱に染まっている。イェンは慌てて、リアの額に手を当てた。
「ひゃっ、あ、あのえっと、い、イェン様……っ!?」
「……やはり、だな」
 掌から伝わる温度に、イェンは苦笑する。ぐっと腰に力を入れて立ち上がると、リアに向かって言う。
「予定変更だ。私は寝室の検分をする。リアは寝ていろ」
「え? あの、いえ、そんな……」
 慌ててパタパタと手を振るリア。その息は荒く、熱い。よく見ると、目も潤んでいた。そんな状態だが、リアは言う。
「私、大丈夫ですから。イェン様のご用命、ちゃんとできますよ」
 そんなリアの様子に、イェンは苦笑し肩をすくめる。
「そんなふらふらの足で言われてもな。……そうだな、どうしてもやりたいなら、医者に問題ないと言われてからだな」
 言って振り返る先には、廊下の手すりに寄りかかり、腕を組んでこちらを見ている女医の姿。話を振られたケーテはふっと笑いながら組んだ腕を解き、リアの方へ歩み寄る。
「あ、あの、ケーテさん……?」
「……なるほど」
 笑みを絶やさぬままリアを一瞥すると、ケーテは左手を腰に当て、右の人差し指をピッと立てた。
「ウィルス性の伝染病の一種ね。主に発熱、鼻閉に倦怠感や頭痛を伴い、咽頭部の炎症を引き起こして……」
「風邪だそうだ」
 ケーテの言葉を遮って、イェンがきっぱりと言う。そのイェンに、ケーテは非難がましい目で「医者の言うことを聞かないなんて」と言っていたが、聞かぬ振りをし、イェンはリアに目で促した。寝ろ。
「えっと、その……風邪って、あの」
 その場できょろきょろとケーテとイェンの顔を交互に見比べるリア。一歩を踏み出そうとして。

 かくん。

「……はれっ!?」
 脚に力が入らなかった。踏み出したはずの足が無くなってしまうような感覚。その場にくずおれそうになるのを、すんでのところで隣のケーテが支えた。腕の中にリアを抱えたまま、ケーテは苦笑する。
「あー、今まで無自覚だったから大丈夫な様子だったのね。こりゃ相当な高熱だわ。何か思い当たる節は?」
「昨晩、毛布もかけずに風通しのいい居間で寝ていた」
「それは……直球ストレートで文句なし一級品の材料ね」
「……と、いうことだな」
 苦笑を絶やさないケーテに、イェンも肩をすくめる。しかし、そんな二人の様子をリアは見ていないようだった。否、見えていないといった方が適切だろうか。ケーテにもたれかかり、ふぅ、ふぅと息を吐く。手はだらりと垂れ、脚もおぼつかないリア。
 ケーテはそのリアの腕を肩に担ぐ。
「寝かせてくるわね」
「ああ、頼む。何かあったら、私はあそこの寝室にいる」
 つい、と目線で奥の部屋を示すイェン。ケーテは頷くと、リアを先導し、階下へと降りていった。その様子を見送りながら、イェンはふと気付く。
(地下の装置の方が、よかったのだろうかな……?)
 少し考えて、すぐにふるふると首を振った。階段をゆっくり歩く二人の姿を手すり越しに眺める。呆とした表情で、ケーテに手を引かれるリア。風邪を引いた人間そのものの彼女の様子。
(……人間と同じやり方で治るならば、それに越したことはなかろう)
 イェンは、ふっと肩をすくめながら彼女たちから視線を外し、中を検分するべく寝室へと入っていった。


 金時計、ワイン一瓶、彫像三つ、銀の水差し一つ、羽ペン、タンブラー二つ、ゴブレット三つ、羊皮紙一束、河魚の干物、ハンカチ、ぬいぐるみ一体。
「……見事に無節操だな」
 寝室からなくなったものをリストアップしながら、イェンは呟いた。高いものから安いもの、大きなものから小さなものまで満遍なく盗られた部屋で、机に頬杖をつきながらふぅ、と溜息。
(金目当て……なのか?)
 どうにも、無作為に盗られている。明確な狙いがあったとは思えない、あまりに種類がばらばらな盗難品目。金目当てにしては、金刺繍入りのハンカチや金時計こそ取られているものの、高級そうな銀のリングなどは剥き出しであったにもかかわらず無事であったりと解せないことも多い。
「イェン?」
 こんこん、と部屋の壁を叩く音に顔を上げる。ドアの傍に立つケーテに、イェンはふっと肩をすくめながら、リストを差し出した。
「リアは?」
「寝かせてきたわ。簡単に診たけれど、やっぱりただの風邪。しばらくは安静にね」
 少し心配そうな様相のイェンから紙切れを受け取り、すっと上から下まで流し読みしながらケーテが言う。その言葉に、イェンは若干安堵したようだった。
「そうか……」
「そうね。そして次は貴方の番よ?」
「む? 何が私の番なんだ?」
 ケーテは、はぁとこれ見よがしに溜息をつくと、ちょいちょい、と下を指差した。床を見るが、そこには別になにもない。怪訝な表情のまま、ケーテに視線を戻す。
「……あのねぇ。廊下とか、結構スプラッタなことになってるわよ? 脚見なさい、自分の脚」
 言われて、イェンは自分の脚に目を落とした。
「……おお」
 いつからだろうか、膝の辺りにじんわりと赤黒い染みが浮かび上がり、今もその赤が広がっていた。改めて見てみると、なるほど部屋の絨毯にも転々と血の斑模様がついている。
「おお、じゃないわよ。まったく」
 呆れたようにもう一度溜息をつき、ケーテはその場に跪いた。イェンのズボンを捲り上げ、膝を露出させる。その傷口にキラキラと輝くのは、小さなガラスの破片。それでイェンはようやくああ、と合点する。台所で膝をついたときか。
「染みるだろうけど、我慢しなさいね?」
 いつの間に取り出したのかケーテは、手のひらサイズの小瓶を翳し、中の液を少し乱暴に振り掛ける。アルコール独特のつんとした匂い。
「……ッ!」
 びくん、と身体を硬くするイェンに、ケーテはふっと笑みを浮かべた。「子供じゃないんだから」などとおかしそうに言われ、イェンはふい、とそっぽを向く。
 そのまま、しばらくの沈黙。
 白い包帯が膝の赤に覆い被さっていく様子を眺めながら、イェンはぽつりと言った。
「姉さんの論文が、なくなった」
 その言葉に、ケーテはぴたり、と動きを止めた。
「……盗られた、ってこと?」
「ああ」
 こちらを見上げながら尋ねるケーテ。イェンは小さく頷いた。しばし、二人の視線が交錯する。お互い、黙ったまま見つめるだけ。
「……そう」
 ふっと息を吐き、ケーテは目を閉じながら首を背ける。いつの間にか、治療も終わっていたらしい。ぱん、と患部を軽く叩いてから、立ち上がる。
「……」
「……」
 それきり、また黙ってしまう二人。ケーテも、イェンも言葉を忘れたかのように互いの目を見る。開いた窓から微かに入り込んでくる風が、やけに冷たく感じられた。
 恐らく、ケーテはイェンの心情を理解しているのだろう。何も言わなくても、何となくイェンにはそれが見て取れた。それは、恐らくケーテも同じなのだろう。
 やがて、イェンはケーテから目をそらした。ケーテも、同じようにイェンから目を逸らす。
「警邏隊に……伝えねばな」
「そうね」
 何となく、言葉が細切れになってしまう。イェンは、ちらとケーテを観る。窓から、外の景色を眺めるケーテの横顔に、声をかけた。
「ケーテ、頼めるか?」
「え……?」
 驚いた表情で、ケーテはイェンを振り返った。また、二人の視線が交錯する。
「……」
「……」
 今、ケーテは何を思っているのだろうか。今度は、よく分からなかった。エメラルドの瞳は、きょとんとしたままだった。
「……ごめん、なんて?」
「いや聞いてなかったのか」
 思わず、がくりと肩を落とす。イェンは溜息をつきながらもう一度、警邏隊に報告に行ってほしいとケーテに告げた。
「リアはお前も知っての通りだからな、使いには出せん。私も……この足ではな。さっきまでは平気だったはずなのだが、痛み出した」
 何となく言い訳じみてるな、と心の中で少し苦笑しながら言うイェン。ケーテは、少し考えてから頷いた。
「分かったわ、報告してくる。……戻ってきた方がいいかしら?」
 こちらを見て応えを待つケーテに、イェンは肩をすくめる。
「いや……特に必要はない」
「あら冷たい」
 くすくす笑いながらケーテは、イェンの溜息に見送られて部屋を出た。ぱたん、と部屋の扉が閉められる。その扉を眺めながら、イェンはもう一度溜息をついた。

 閉めたドアに寄りかかりながら、ケーテはふっと瞳を閉じる。ドアの向こうにいる人間の顔を思い浮かべた。
 自分の手のひらを見つめる。白い手に、擦れるように付いた赤がそこにあった。ぎゅっと、手を握る。その手を、いとおしげに胸に抱いて、ケーテはそっと扉から背中を離した。廊下を渡り、かつ、かつとゆっくり階段を降りる。
「ん……ふぅ……」
「っ!?」
 一階まで降りたところで聞こえてきた吐息に、ケーテはびくっと肩を震わせた。その発生源に目をやる。
「……は、ふぅ……すぅ……」
 ソファに横になり、毛布をかけられた金髪の少女。ケーテは静かにそのそばまで歩み寄り、屈みこんでリアの寝顔を見た
 発熱で汗ばんだ額に、前髪が張り付いていた。少し乾いた唇から漏れる寝息は、苦しそうだが、深く寝入っているのが感じられるトーン。
 そっと、額の前髪を払ってやる。
「んん……」
 リアが発した呻きに、ケーテは思わずぱっと手を離した。しばらくそのままリアのことを眺めるが、どうやら目は覚ましていないようだった。ケーテは少しほっとする。何となく、髪を梳くように撫でてやった。それでも、よっぽど眠りが深いのか、一向に目を覚ます様子はない。
「ん……にゅぅ……」
 少し気持ちよさそうな声が、リアの口から漏れた。ケーテも、優しげな表情になる。微笑を浮かべたまま、しばらく撫で続ける。
 そのリアの口から、寝言が漏れた。
「んん……イェン、様……すぅ……」
 その言葉に、ケーテは、驚いた顔になる。ぴたりと動きを止めたまま、リアの寝顔をじっと見つめた。リアは、規則正しくすぅすぅと寝息を返すばかり。
 ケーテは目を伏せながらリアから手を離した。
「……ごめんなさいね、リア……ちゃん」
 呟く。リアは寝ていて気付かないであろうことは分かっていたが、ケーテはそう呟いた。
 応えるのは、寝息ばかり。ケーテはふっと自嘲気味に溜息をこぼすと、立ち上がった。そのまま、リアに背を向けて、ドアの方へと歩いていく。
 静かにケーテは玄関へと消え、居間にはリアの寝息だけが聞こえていた。


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