第五章 リア


「む……私は……」
 ちりちりと油紙の燃える音に、イェンはふっと目を覚ました。開いた本に手を載せ、机の上に頭を投げ出している自分の体勢。ちりちりと頭上で聞こえた音は、ランプの灯が燃える音だったらしい。
「……眠ってしまっていたのか」
 上体を起こし、ふるふると頭を振る。まだ少し、頭がボーっとしていた。顔を両手で軽くこすりながら、ひとつため息。
 イェンは、自分が眠る前の状況を思い出す。
 確か、ロシェルが遊びに来て、リアにいろいろ試着させようとするのを部屋から追い出し、ケーテが晩のタイミングで現れたのに呆れながらも食事を用意し、リアが夕食直前になって洗濯物の取り込み忘れに気づき、慌ててそれを手伝い、それから食事をして……。
(……疲れるわけだ)
 イェンは苦笑した。思うに、最近の自分は少し平穏が足りない気がする……などとつまらない事を考えてしまう。イェンは頭を振った。
「少し……目を覚ますか」
 呟きながら、うーんと大きく伸びをする。おそらく、まだ風呂の火は落ちていないだろう。イェンは未だぼーっとする目をこすりながら、階下へとゆっくり降りていった。
 居間にも、玄関にもまだ明かりが灯っているということは、リアも起きているということだろうか。それとも、単なる消し忘れかもしれない。
(風呂上りにリアを見つけたら、ちゃんと消しておくよう言っておかねばな……)
 欠伸をかみ殺しながら廊下を歩く。妙な格好で眠っていたせいだろうか、節々が少し痛みを訴えていた。
 目をこすりながら、脱衣所に入る。何故だろうか、今日に限ってすごく頭が重かった。ともすればふらつこうかという足で、まずは風呂場の扉に手をかけ、湯気を顔にでも浴びて少しでも目を覚まそうと思ったのだろう。
 ためらいなく、開いた。
「あ……イェン様……?」
 中から聞こえた声に、イェンの意識は無理やり眠気という沼から引きずり出される。
「あー……いや、その、なんだ……」
 湯気の向こうに、まず見えたのは、金の流れ。そして、白い素肌。ちょうど湯で体を流した後だったらしい、床を流れる石鹸の泡と、つやつやと光る肩口。
「あ、そっか。お目覚めになったんですね」
 リアは一糸まとわぬ姿のまま、ぽんと手を打った。都合、正面を向く形になり、イェンは慌てて目を逸らす。そんなイェンの様子に拘泥することもなく、リアはイェンに尋ねた。
「あ、イェン様も入ります?」
 そう言いながら、ひたひたとこちらに歩いてくるリア。洗い上がりの長い髪が体に薄く張り付き、熱でほんのりと上気した肌が湯気にぼやけている。
「い、いや構わん。私は後でいいから、リアが先に入っているといい」
 イェンはそれだけ言うと、逃げるように風呂場から出て行ってしまった。リアはそのイェンに、むぅ、と唸った。
「なんで避けるんでしょう? むー」
 眉根を寄せながら、湯船に体を滑らせる。足先からじんわりと体が熱くなっていくのを感じて、リアは天井を眺めながら、ふぅとため息を漏らす。
「イェン様……逃げちゃった」
 湯の中に、顔を半分潜らせながらリアは先ほどのことを回想する。イェンは自分から目を逸らし、話も聞かずに行ってしまった。
「ぶくぶくぶくぶく……」
 湯の中で、不満げな顔のまま息を吐く。ぽこぽこと自分の目の前で気泡が現れてははじける様子を見て、リアは少しだけ顔をやわらかくした。
「一緒に入れたらよかったのにな……」
 湯船の淵に寄りかかり、側面を撫でながらそんな事を呟く。もし、あのまま一緒に入っていたら、今頃どうなっていただろう。リアは夢想する。
 そうしたら、きっとこの湯船にイェンがいたはずだ。スペースを考えるに、二人だと少し狭いかもしれない。ということは、当然湯船の中で体は触れることになるだろう。
「……痛ッ!?」
 リアは、自分の胸の辺りが熱くなるのを感じた。ずくん、ずくんと、それはまるで心臓の鼓動のようにリアの中から大きくなっていった。思わず、胸を押さえる。
「……どう、したんだろう……」
 はぁ、と息を吐きながら呟く。痛み自体はすぐに引いていったが、その後に胸に残った不思議な感じはなかなか抜けなかった。
 リアは、再び天井を眺めると、足で水面をぱしゃりと蹴った。ゆらゆらと揺れる水面に、自分の金髪が浮かんでいる。
「リアさん……イェン様の、お姉さん……」
 過日聞いた話。リア=オーリックの人となり。
「私を生んでくれた……そんな人……」
 ぱしゃりと、もう一度水面を蹴る。水面が、再びゆらゆらと揺れる。水の流れが、リアの体を包んでいた。その感覚は、彼女はずっと前から知っていた。

『リア……もう少しだ』
 水槽越しに聞こえた声。見えない目で、必死に声の主を探そうとしたあのとき。
『これでよかったのか……リア』
 体も動かない、目も見えない、声も出せない。ただ耳だけで聞いていたあの優しい声。優しく、でも決意に満ちた声。
 初めて目を見開いたとき。初めて水槽の外の人間……自分以外の存在を見つけたとき。初めてこの地面に降り立ったとき。頭の中にあったのは、何度となく聞こえたあの言葉。
 それだけが、彼女に与えられていたものだった。大地に足をつけたとき、体のほかに彼女が持っていたただひとつのものだった。
 『リア』という言葉。
 だから、自分を示すもの、と言われ。リアは、自分が持つものを。自分だけが持つものを、名前にと望んだ。

「ぶぶぶぶぶぶ……」
 再び風呂の中でぶくぶくと息を吐く。なんとなく、言葉にならない。膝を抱えてぶくぶくぶく……と気泡を弾けさせていた。
 そして、何故かまたイェンのことを考え……
「……あ、そうです。イェン様が待ってたんだった」
 ぱんと、目の前で手を合わせながら言った。リアはいけないいけない、と風呂の淵に手をかけて立ち上がり。
「あ、ら?」
 ぐにゃりと、視界がゆがむのを感じたところまでは、何とか覚えていた。視野が狭まり、暗くなる。足がふわりと軽くなり、上下の感覚がなくなり。

 ばしゃあんっ!!

 盛大な音を立てて、リアは湯船の中に倒れこんだのだった。薄れてゆく意識の中で、リアはイェンが自分の名前を呼びながら近づいてくるのを聞いた気がした。
(あは、よかった……来てくれた……)
 そんなことを最後に考え、リアは意識を手放した。


 一夜明けて。
「うー……まだふらふらしますー」
「まったく……」
 言葉通りふらふらと左右に揺れながら往来を歩くリアを振り返り、イェンは苦笑しながら肩をすくめる。昨晩は、いきなり倒れられて焦りもしたが、蓋を開けてみればただ単にリアはのぼせただけだった。
「しかし……まぁ、あれだけ長く入っていればのぼせもするだろう」
「はうーん……いつもじゃないんですよぅ?」
 体を縮めて、リアは言う。人差し指同士をつんつんと合わせながら、こちらには目を合わせない。怒られるとでも思っているのだろうか。イェンは、少し笑いながらため息をついた。
「ふぅ……次からは、気をつけることだ」
「あ……は、はい」
 一瞬こちらを見、またすぐに視線をそらしてしまうリア。イェンは、そんなリアに苦笑することしかできない。
(はうー……)
 リアは少し俯きながら、イェンの背中を追いかける。普段なら横に並ぶのだが、昨日の決まり悪さもあってか、今の位置から少しでも近づこうとすると足が拒否反応を示していた。自分では近づきたいのに、何故か近づけない。
(……遠い)
 イェンはリアに合わせて、歩みをゆっくりにしてくれている。それでも、リアはその背中に追いつくので精一杯だ。なんだか、もどかしい。
(これは……相談するべきでしょうか……?)
 リアは少しだけ考えるが、これもやはり何故か相談する気にならなかった。別段、体に異常があるわけでもない。生活に障りがあるわけでもない。
 それに、いつもこんなふうというわけでもない。自分でも発動条件は分からないが、たまになる程度、というだけのものなのだ。
(むー……)
 リアは、考える。むーむー、と漏れるのはうめき声ばかり。
 結局、考えもまとまらないまま、リアはイェンの背中をとてとてと追いかけていった。

「あ、イェンさん、リアさん」
 突然横合いから名を呼ばれ、イェンは歩みを止める。その背中に、リアが追突。
「きゃっ……」
「……何をやっているんだお前は」
 鼻の頭を抑えるリアに、イェンは少し呆れ顔で振り返りながら言う。「すびばせん」と謝りながら鼻をさするリア。そこに聞こえるくすくすという笑い声。
「ふふ、相変わらずですね」
「ん……ああ、フェリシテか」
「ごきげんよう、イェンさん、リアさん」
 ぺこりと、腰を落として挨拶するフェリシテに、イェンは軽く会釈をする。
「お買い物ですか?」
「ああ。少々薬草の類が不足していてな……。そっちは、町を視察中か?」
「ええ、そんなところです。公務半分、ですね……建前上は」
 ふふ、といたずらっぽく笑うフェリシテ。つまり、息抜きで散歩をしているということなのだろう。イェンは、肩をすくめてそれに応える。
「それと、折角ですので、先日お世話になった女医の方にそろそろお礼を言いに行かないとと思っているのですが……」
「ああ、ケーテのところか」
 そういえば、フェリシテが最初に倒れていたときそれを介抱したのはケーテだった。ほんの数日前のことなのに、ずいぶんと昔に感じた。
「今までも行こうとは思っていたのですが、中央への報告書など公務が忙しくて、なかなか時間が取れなかったので」
「なるほど……それで、今は帰りか?」
 イェンがたずねると、フェリシテは少しだけ顔を赤らめて、決まり悪そうに首を振った。
「あの……実は、どこにあるかを詳しく知らないんです……」
「………………そうか」
 その言葉とともに、少しだけ沈黙してしまう。なんとなく気まずい雰囲気。イェンは頭を掻きながら、どうしようかと言葉を探る。
 イェンの用事といっても、大したことはない。それに、薬草を取り扱ってる店に行く道中にハイニヒェン医院はある。
「……ふむ、よければ医院まで案内するが」
「あ、いいんですか……?」
 フェリシテがうつむいた顔を上げ、少し驚いたようにイェンを見る。イェンの後ろでも、驚いたような顔でリアがイェンを見ていた。二つの視線に射られ、イェンは少し苦笑しながら言葉を接ぐ。
「……いや、まぁ。私の用事の道中だから、別に構わんのだが……何でリアまで意外そうな顔なんだ」
「あ、いえ、イェン様がそういうこと言うの珍しいなーって」
 正直だった。イェンは頭を抱える。
「……で、どうする?」
「あ、それなら是非、お願いします」
 スカートの裾をつまみ、淑女の礼をするフェリシテ。冗談混じりながらも、こういう仕草が様になるのはやはり天性の何かだろうか。
「そうと決まれば行きましょうーです!」
 何故かやにわに元気になったリアが、ずんずんと先導して進み始める。その肩を、イェンの手ががしっと掴む。リアが想像していたよりも、少し大きな手だった。リアは振り返る。そこには、苦笑するイェンの顔。
「……どこへ行く気だ?」
 思いっきり逆方向だった。イェンは一度だけため息を吐き、戸惑うリアの手を引いた。
「私が案内する。こっちだ」
「あ……あの、イェン様……」
 手を引かれたまま、リアは戸惑った声を上げる。少し恐縮して、こちらの顔をうかがうようなリアの目。
「す、すみません……」
「別に怒ってはいないさ」
 イェンは苦笑し、リアの手を放した。そして、フェリシテを振り返り、「行くぞ」と促す。フェリシテもこくりと頷いてその後に続いた。
(……)
 リアはその場に少し立ち止まる。普段、あまり熱を感じない体だが、左手だけが熱を帯びたような感覚。そっと、その左手を胸に当てる。胸の奥の宝玉が、また少し熱くなった気がした。
「リア、何をしている? 置いていくぞ」
「あ、は、はい今っ」
 かなり遠くまで離れてしまったイェンに声をかけられ、リアは慌てて走り出していった。先ほどまで感じていた近寄りづらさは、いつの間にか消えていた。しかし、リア自身すら、そのことに……自分がイェンに感じていた近寄りづらさも、気づかなかった。この時は、まだ。


 リアを従え、フェリシテと一緒に町を歩く。
「おやフェリシテちゃん、こんにちは」
「ちょっと寄ってお行きよフェリシテちゃん」
「おう、フェリシテ嬢ちゃん今日は具合はいいのかい」
「フェリシテちゃん、いい魚が入ってるよ」
 店の前を通る度、誰かとすれ違うたびにフェリシテに声がかけられる。それに対してフェリシテも笑顔で応対し、売り物は辞退し、世間話には二言三言返事をしては、軽く会釈をして辞去する。
 町の人間もみな笑顔でフェリシテに話しかけ、この小さな領主とのひと時の会話を楽しんでいるようだった。
(何だ、リアに聞いていたよりも……慕われているではないか)
 イェンは、フェリシテの様子を眺めながら、くすりと優しい笑みを浮かべた。
「はい? どうかしました?」
 フェリシテがこちらに気づき、首をかしげる。らしくない表情を見られたイェンは少しだけばつの悪い顔で。頭を掻きながら言う。
「いや、よく声をかけられるなと思ってな」
「あら、斯く言うイェンさんだって」
 くすくすとおかしそうに笑いながらフェリシテ。それに呼応するように一人の壮年の男がイェンに話しかけた。
「おや魔術師先生、今日は両手に花ですな」
「……あー、聞こえん」
 イェンは、それでも律儀にその男性に少し会釈をしながら、フェリシテの方を見返し肩をすくめる。くすくすと笑うフェリシテ。首を傾げるリア。
「イェン様、お花なんか持ってました?」
「あー……」
 きょとんと尋ねてくるリアに、イェンは頭を掻きながら言葉を捜す。なんと説明したものか。そのままを説明するのはどうにも気恥ずかしかった。
「ふふ……教えてあげないんですか?」
「……はぁ」
 少しいたずらっぽくフェリシテが言うのに、イェンはため息とともに肩をすくめる。このフェリシテの前ではなおの事リアに説明をすることはできないだろう。「むー」と眉根を寄せるリアを適当になだめながら、イェンは再び歩き出す。そのイェンの背中に、フェリシテが声をかける。
「イェンさん」
「ん?」
 振り返る。そこには、先ほどまでとは表情の違うフェリシテ。微笑んではいるが、少し寂しげで。ぽつんと立つその周りには誰もいないかのように。
 イェンは周りを見回してみる。人の流れがちょうど途切れ、そこだけ切り取られたかのように静寂に包まれていた。三人だけに当てられたスポットライト、そんな錯覚すら覚える、フェリシテの表情。
「……でも、私を領主として見てくれる人はいません」
 ぽつりと、フェリシテがつぶやいた。独り言のように、でもこちらに聞こえるようにしゃべりながら、フェリシテは歩を進める。それに促されるようにイェンとリアも再び歩き出しながら、フェリシテの言葉に耳を傾けた。
「私は、みんなに大事にされています。それは、本当に嬉しい……でも、それは領主を大事にしているのではなく、町の領主であったフランシス=シャルロワ……お父様の娘として、可愛がってくれているだけ」
「ふむ……」
 フェリシテの声は、いつも通りだ。内容とは裏腹に、悲壮感もない。ただ世間話のように、訥々としゃべる。
「私は……領主として彼らに報いたい……彼らが私にそれを求めていなくとも。……彼らが、私にそれを期待していなくても。そう思うのは、我侭なのでしょうか?」
 くるりと、髪を翻しながらフェリシテはイェンを振り返る。手を後ろに組んで、楽しい話をするように微笑みながら、フェリシテの瞳がイェンをじっと見つめていた。
「どう……だかな」
 イェンは頭を掻きながら言葉をつむぐ。
「私は、そういった願望がほとんどないのでな……だが、そう思うことが間違いだとは思わんさ」
「そうですか?」
「領主としてすることと、今フェリシテがしていることは何か違いがあるのかは知らないが……フェリシテが望み、行動することを我侭だと笑う人間はいないと思う。それに、領主としてあろうとするフェリシテの思いは立派だとも思う。ただ……」
「ただ?」
 イェンは頭を掻き、苦笑をしながら言った。
「やろうとしていることは生半可なことではなかろう。支えなしで、独力でやるには限界がある。支えを、求めてもいいのではないか?」
 イェンは言い終えると、フェリシテの方を見た。こちらに向けられた栗の瞳が、イェンを射抜くように見つめていた。少し俯きながら、フェリシテが言う。
「では、イェンさん……あなたは、私の支えになってくださいますか?」
 手できゅっとスカートの裾をつかみ、少し周囲をはばかるような小声で。少しだけ不安そうに言うフェリシテの姿は、何故だか年相応に、ともすればそれ以上に小さく見えた。イェンは、そんなフェリシテに肩をすくめる。
「今更、だな。当然フェリシテが求めるならば私も支えになる。それに、リアだって」
「え、あ、お、は、はいっ!?」
 突然話を振られ、慌てて返事をするリア。その様子にイェンは苦笑を浮かべながら、再びフェリシテのほうに向き直る。フェリシテは、少しだけ苦笑を浮かべていた。
「……そういう意味ではなかったりしたんですけど……でも、ふふ、嬉しいです」
 にこりと、苦笑ではなく本当に嬉しそうな笑みを浮かべてフェリシテはくるりと体を翻した。風に煽られて少しだけスカートが、ケープがふわりと浮く。その様は、フェリシテがまるで風に溶けているかのようだった。
「ありがとうございます、イェンさん、リアさん……まだ、答えを探してみたいと思います。私は……皆のために……できることがあるから、やりたい。私を慕ってくれる、愛してくれる人たちに、報いたい。そう思ってますから」
 ちらりと、イェンを一度だけ見ると、フェリシテはそう力をこめて言った。そして、それに付け加えるようにイェンに向き直ると、にっこり微笑みながら。
「だから、よければ私の相談に、これからも乗ってくださいね」
 ぺこりと、頭を下げるフェリシテ。
「ああ。話を聞くだけしかできないが、それでよければな」
 イェンは頷きながら答えた。その袖を、くいくいと引っ張る手。
「あの……イェン様」
「ん、どうしたリア?」
「あの……えっと」
 イェンに見つめられ、少し口ごもる。リア自身にもわからないが、何故か袖を引っ張りたくなった。リアはきょろきょろしながら、言葉を捜す。
「えっと……その、ケーテさんのところ、まだでしたっけ?」
「ん、ああ。もう少しだな」
「でしたっけ」
 えへへ、と少し決まり悪そうに笑いながら、リアはイェンから手を放す。一度行ったことがあるだろうにとイェンは首を傾げる。そんなイェンに、前方から声がかかった。
「おや、魔術師先生。色男だね」
「……」
 笑いながら言うおばちゃんに、がくりとうなだれる。イェンの様子におばちゃんはさらに笑い、その後ろにいるフェリシテにも声をかける。
「おやフェリシテちゃん、お出かけかい」
「ええ、新しくできた病院の方にまだご挨拶してなかったので」
 ぺこりとお辞儀をしながら答えるフェリシテ。おばちゃんはそうかいそうかいと頷きながら、前方の角に建つ医院を振り返った。
「あそこの女医さんは若いのにたいしたもんだよ。うちの父ちゃんが腰をぎっくりやっちまったのをさくっと治してくれたのさ。ありゃもう魔法みたいだね、あたしゃびっくりしちまったよ」
「ほう」
「なんでもね、中央のほうからいい薬を仕入れてるらしいんだ。この町の人間は健康そのものだからそんなにお世話にはならないだろうけどね。でも、本当いいお医者様だよ。フェリシテちゃんもね、体が弱いんだから少し相談するといいよ。あと、魔術師先生もあんまり閉じこもってるとカビが生えちまうからね。その辺もあの女医先生に見てもらってもいいんじゃないかい?」
 あっはっは、と豪快に笑いながら、おばちゃんは去っていった。がくりとうな垂れていたイェンは、おばちゃんが去るころにはほとんど地面に崩折れかけていた。
「はぁ……」
 特大のため息を吐いて、何とか立ち上がる。心配そうに見つめるリアに、「なんでもない」と身振りで示しながら、イェンはふるふると首を振った。
「しかし、なかなかの評判ではないか。暇だ暇だといっていたわりには」
「ケーテさん人気なんですねー」
「ふふ、今までありませんでしたからね。あちらから志願されたとはいえ、来てくれて助かりました……まさかその恩恵を一番に受けるとは思いませんでしたけどね」
 ほへーと言うリアに、フェリシテが苦笑しながら答える。そのフェリシテの言葉に、イェンも苦笑するしかない。
「そうね、私もこの街に来て一番最初に診るのが領主様だとは思ってもいなかったわ。それと、イェンがこんなに甲斐性がついたともね」
 くすくすと、後ろから聞こえてきた声に、イェンはぎょっとして振り返った。
「ふふ、どうしたの色男?」
「……ケーテ」
 振り返った先。近くの柱に背を預け、笑いながらこちらを見る赤髪の女性に、イェンはため息をついた。


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