第四章 遥かなる日々


 ケーテ=ハイニヒェンは、窓の外を眺めていた。
「雨か……憂鬱」
 夕刻からぽつぽつと降り始めた雨は、時間とともに激しさを増していた。空一面を覆う黒雲が、なにか不気味に地面を圧迫しているように見える。

 どん、どんっ!

 無遠慮に叩かれたドアに、ケーテは慌ててそちらを振り返る。誰かを訪ねる時間としては、かなり遅い。それに、叩き方も少し尋常ではなかった。
「はーい、どなたー?」
 ぱたぱたとドアに近寄り、少しだけ開けて外を窺う。
「はぁ……私だ、ケーテ……」
「え、い、イェン!? ど、どうしたの?」
 ドアを完全に開いて、確認する。そこにいるのは確かに、イェン=オーリックその人だった。
「ちょっと……ずぶぬれじゃない」
 中に招きいれながら、ケーテは呆れたように言った。全身水を吸って、ぽたぽたと床に雫が滴っていた。前髪もぺったりと顔に張り付き、その顔は蒼白。冬も終わったとはいえ、まだまだ寒い。唇からも血の気が引いているイェンの顔は、夕刻別れた時のそれとはまるで違ったものだった。
「……」
「どうしたのよ、イェン……ん?」
 ケーテは、床の滲みに違和感を感じ、眉根を寄せた。赤を基調にした絨毯に染みる雨垂れ。そこに不自然に浮かび上がる、赤黒い領域。
「ちょ……怪我してるの!?」
「……いや」
 イェンは、握りこんでいた左手を開く。そこには。
「ひっ……あ、あれ?」
 べったりと赤黒くついているそれは明らかに血液だ。しかし、ぱっと見たところ彼の手はどこも切れたり擦り剥けていたりはしない。
「ケーテ……悪いが、今夜は……ここに、いさせてくれないか?」
 顔色悪く、しかし目はいつもの冷静なままでイェンが言う。
「いいけど……本当に何があったの?」
「……姉さんが、殺された」
「……は?」
 イェンの口から出た言葉を、ケーテは理解できなかった。言っていること自体は簡素なもので、頭としてはそれを認識できたが、イェンが何を言っているのか分からない。
「詳しくは……言えない。だが……頼む」
 イェンは静かに頭を下げる。前髪が顔から離れ、ぽたぽたと床に水滴をたらす。ケーテは、何も分からないまま、ただ考える。今、自分はどうするべきなのか。
 答えは、考えるまでもなかった。
「はい、タオル」
「……ケーテ?」
 タオルを手渡され、イェンは少し当惑した顔でケーテを見遣る。ケーテは腰に手を当て、苦笑しながら床を指差した。
「そのままいてもらっちゃ床がずぶ濡れになっちゃうでしょ。風邪も引くだろうし、ちゃんと拭いて拭いて」
「……すまない」
 イェンは、そのタオルで頭を触りながら、ケーテにもう一度頭を下げた。

 夜半まで、二人は無言だった。イェンが簡単に状況を説明し、あとはただ沈黙の中で二人座っていた。少しでもお互い温もりを分け合えればいいのかもしれないが、どちらもそんな気分ではない。紅茶を、シナモンスティックでかき混ぜ、あるいは嚥下する音だけが響く。あとは、雨音だけ。窓の外を覆う雨のカーテンはいよいよ濃くなっていた。
「ちょっと、外出てくるね」
 ケーテがおもむろに立ち上がる。何か、今の状況を壊すきっかけがほしかったのだろうか、言うなり傘も持たずに外へ出て行くケーテ。それを見送りながらイェンは、自分の手を見つめた。もう洗ってしまったが、先ほどまで姉の血に汚れていた手。未だに湧かない実感。
(姉さんが……死んだ)
 頭の中で繰り返す。そして、胸ポケットに手を当てた。
(……熱い)
 その石は、確かに命を感じさせた。死に際の、姉の言葉。
『あの子を、お願いね』
 託されたのは、この石。姉が、謝りながら自分に手渡したこの遺志。しかし、今の自分にどうすることができるだろう。イェンは自問する。
「……はぁ」
 ため息すら億劫だった。そのとき、こつこつと部屋の外から聞こえてくる足音。イェンは体を硬くして、入り口から見えないような位置に移動する。
「ふー……ただいまー」
「何だ、ケーテか……って何をしていたんだ!?」
 彼女の姿は、先ほどの自分の姿を見ているようだった。ずぶ濡れの髪をかきあげ、タオルで拭きながら、ケーテは少し笑った。
「ちょっと、頭を冷やしたくってさ」
「……そうか」
 確かに、先ほどより幾分かケーテも落ち着いているように見える。イェンはふぅとため息をつくと、壁に寄りかかった。
「イェン、私はイェンの味方だからね」
 それに追いすがるようにして優しく口付けながら、ケーテは告げた。イェンは、そのキスを受けながら、返す言葉を捜した。
「……ケーテ」
 何も見つからないまま、イェンは俯いてしまう。と、慌しい足音が廊下から聞こえてくる。二人ははっと顔を上げ、
「イェン、ちょっとここに入ってて!」
「な、ここってクローゼッ……」
 最後まで聞くことなく、ばたむと勢いよくクローゼットの開き戸を閉める。「おうっ!?」という声が聞こえた気がしたが、ケーテは気にしない。

 どんどんっ!

 程なく、ドアが激しく叩かれた。ケーテは扉を開く。
「ケーテ=ハイニヒェンさんですね」
「そうだけど、あなたは?」
「遅くに失礼、私は学生管理局の者ですが……」
 身分証を提示しながら、ドアの外にいた男はケーテを見遣った。
「実は、イェン=オーリックという学生を探しているのですが、こちらにいませんかね」
 物腰穏やかな男性だが、その眼光は鋭い。しかし、それを意に介することもなくケーテはきっぱりと言った。
「いえ、今日は夕刻別れたっきりです」
「そうですか……濡れた足跡がありましたがね、この部屋の前まで」
「ああ……それはさっき私が出て行った帰りかな。ちょっと傘持っていかずに出ちゃったから」
 言いながら、首にかけたタオルを示すケーテ。
「こんな夜に?」
「ええ、ちょっとありまして、外を走ってきたんですよ。私、なにかもやもやしてるときは、走ることにしてるんです」
 まるで、カウンセリングのように言うケーテ。それで男は納得したようだった。
「そうですか、風邪など引かないように気をつけてください。では、イェン=オーリックさんを見かけたら、ご一報を」
「彼が、何かしたんですか?」
 ケーテの問いに、男は首を横に振った。
「いえ、ただちょっと管理局のほうで面談したいことがあっただけですよ。特に彼が何かをしたというわけじゃない」
「そですか。お勤めご苦労様」
 ぴしっとふざけたような敬礼をするケーテに、管理局の男は苦笑しながら立ち去って行った。その背中を見送ると、ケーテは盛大に息を吐く。そして、クローゼットに近寄ると、中のイェンに声をかける。
「大人気ね」
「ケーテ……お前、外に出たのは」
「気にしないで、もやもやを走って解消したかったのも事実だし」
 遮るように言って、あははと笑ってからケーテは少しだけ無言になった。イェンはクローゼットの開き戸を開けようとする。それを、外からばしっと押さえ込んだ。
「どうせまた隠れることになるんだから、どうせだからじっとしてなさいよ」
「……世話をかける」
 ケーテの心遣いがうれしかった。そして、心苦しかった。イェンは、心の中でケーテに詫び、感謝する。
「しかし……あからさまに追っ手だったな」
「そうね……あからさまだったわね」
 クローゼットに寄りかかっているのだろうか、すぐ近くからケーテの声がした。中からは見ることができないその様子を想像し、イェンは少しだけ苦笑する。が、その表情もすぐに消えた。
(追っ手か……やはり、あまりフェイクも役に立たなかったようだな……)
 ここに転がり込むことができる程度には時間を稼げたのだからそれはそれで僥倖なのかもしれないが、ともイェンは思う。ただ、いずれにしろあまり長くはいられないようだ。長くいればいるほど、リスクも高くなるし、ケーテにも負担がかかる。
 それだけは、確信した。


 次の日の朝、イェンはそっとクローゼットの扉を開けた。いつの間に眠っていたのだろう、記憶のないほど眠っていたのか、もうケーテはいなかった。
 足音を忍ばせて床に降り立つ。一晩中不自然な格好だったせいか、体中がぎしぎしと悲鳴を上げたが、伸びをしている暇もなかった。
 今はどのくらいの時刻なのか。イェンは窓辺によると、カーテンを手で押しのけた。
「……雨、か」
 昨日からずっと降り続く雨、朝になって少し弱まったようだったが、それでも間断なく降り注ぐ水とその先の雨雲に遮られ、今がどれくらいの時間なのかは分からない。イェンはため息をつくと、そっとカーテンを戻し、あたりを見回しながら静かに部屋から出て行った。

 幸いにして、寮の自室に戻り、最低限の荷物をまとめ、再び出て行くというところまで誰にも見られることなく。閑散とした静かな寮に、少しだけ違和感を覚えながらイェンは、ずっと胸ポケットに入れたままの石をもう一度握った。
 一晩、考えた。
 リアの言葉。彼女の姿勢。リアが、研究のことをどれほど愛おしそうに語っていたか。研究所の姿勢。道具として、兵器として彼女の研究を騎士団に提供しようとしていた。施設長のやったこと。口を封じるために、あの壮年の男は躊躇うことはなかった。自分の立ち位置。彼は今、研究所の人間に捜索されている。見つかったらどうなるのか、想像に難くない。ケーテのこと。彼女なら、頼めば自分の側にいくらでも付いてくれるだろう。それ相応の負担があるにもかかわらず。
 そして、この石の行く末。このまま自分が捕まれば、この『人間』は、『母』の望んだような生は受けられない。それならばいっそ彼女がしたように、この罪を背負って、裁かれることでこの石に苦しい生を与えないという選択をするべきなのか。
 イェンは、首を振った。
(姉さん……違う)
 一晩中肌に感じる場所に置いて分かった。この石はすでに『生』を十分与えられている。それを自分の都合でなしにするのは……それはこの『人間』を殺すことではないだろうか。
 考えながら、雨に濡れるのもかまわず構内を歩く。時計台の時計は、ものすごい早朝を告げている。なるほど、誰もいないわけだ。まだ起きてすらいない時間なのだから。
(好都合、か)
 イェンは少し苦笑しながら、校門へと歩み寄っていく。ここを出れば、もう帰れまい。事務方にまで手が回り、自分を狙うこの施設に、どうしていつまでも居られるだろう。
「……やっぱり」
 校門の影から、声が聞こえた。ぎょっとしてイェンはそっちを振り返る。
「……ケーテ」
「どこに、行くの?」
 雨に遮られながら、まっすぐにこちらを見つめてくるケーテ。イェンは応えない。しかし、彼女はもう、分かっていたらしい。イェンの覚悟、イェンがどうしようとしているか。その上で、彼女は言葉をつむぐ。
「もう少しじゃない。もう少しで、イェンは一人前の魔術師になれるんだよ? そうしたらあの人たちだって手出ししにくくなる」
「……」
「イェンなら、すぐになれるじゃない。頭いいんだし、要領もいいんだし」
 雨粒が口の中に入るのだろうか、時々言葉を途切れさせながら、ケーテはイェンに言い続ける。
「捕まったらって思うかもしれないけど、昨日は何とかなったでしょ? 私が、何とかしたでしょ?」
「……」
「少し、嬉しかったのよ、昨夜は。私が……イェンを守れたから」
 ケーテは、その場を動かずにイェンに声を投げかけ続ける。それをどれだけ流されても、逸らされても、投げかける。
「私が! ずっとイェンを守ってあげるよ! ずっと……それが無理でも、魔術師の認定をもらうまでくらいなら、絶対守れる! 守って見せるから……!」
 叫びが、ケーテから発せられる。雨音がやけにうるさかった。雨の向こうで嗚咽に胸を押さえ、苦しそうに息を吐くケーテ。イェンは一言も発しない。ただじっと、ケーテはイェンを見つめ、イェンはケーテを見つめる。
「私は……そんなに頼りない? 頼れない!? 私の迷惑なんて、イェンは考えなくていいんだよ! だから……頼ってよ……私を、支えにして……!」
「……どけ」
 遮るように一言だけ言うと、イェンは再び歩き出す。ケーテに近づき、すれ違う。ケーテの顔が、雨で濡れていた。真っ直ぐ前を見据えた瞳からこぼれるものを、イェンは見て見ぬ振りをする。
 リアに託された……そして、自分が研究所から盗み出した石を胸に秘め。ただ呆然と見送るケーテの姿を記憶から追い払い。ただ、彼女の瞳だけはどうしても記憶から消えてくれずに。
(これで……よかったんだ)
 部屋の荷物は最低限は持ってきた。あとは、処分した。誰が見ても、出て行ったのが一目瞭然であるように。ケーテに、疑いがかけられないように。
 自分は、追われるだろう。イェンには、確信がある。しかし、それは逆に好都合だった。すべてを一身に背負えれば、少なくとも学院の中に禍根は残すまい。自分の持ち出したものは禁忌だ。学院としても大っぴらにはできないだろう。
 リアのことは、伏せられるだろうか。おそらくは、あの施設長の言っていた通りになるのだろうが、そうであるならばなおのこと自分は学院にいるべきではない。ケーテのためにも、そして胸ポケットに眠る生命のためにも。
 託されたのが自分ならば、自分以外が苦しんではならない。無関係の人間が、苦しめられてはならない。
(……ふ、言い訳だな)
 次から次に言葉を並べ立てる自分に苦笑し、一度だけ学院を振り返った。まだそんなに歩いていないはずなのに、随分と遠くに離れているような気がして、イェンは思わず肩をすくめてしまう。そうして、再び学院に背を向け、二度と振り返らなかった。


「……と、いうことだったな」
「まったく、しれっと言ってくれちゃって」
 話を終え、どっかりと椅子の背もたれに深く体を預けるイェンに、ケーテがからかうような苦笑で言葉を投げかける。
「でも実際、大体イェンの予想したとおりになったけれどね」
 言いながら、ケーテも机から腰を上げる。
 ケーテの曰くに、リアは事故で死んだと発表され、イェンはただの行方不明と表では発表された。イェンが研究資料とコアを盗み出したおかげで研究は頓挫。表向きの解体と相成った。そしてその裏でイェンの追討隊が、かつての研究所のメンバーを中心に組まれ、草の根を分けてでも探していたらしい。
 それもやがて時とともに沈静化し、これだけの時間何もなかったのならば彼はリークするつもりはないのだろうという見解が追討隊の大多数を占めるようになり、自然消滅的にそれすらなくなった。
「でも、本当にね。あの時、私の言うことなんか聞いてくれなかったイェンは、辛かったわよ」
 恨みがましい口調で、ケーテが言う。その目は三白眼だが、口が笑っていた。もはや、彼女の中では笑って話せることなのだろうか。
(強くなった……な)
 イェンは、少しだけ彼女をうらやましく思う。忘れようとして、忘れられずにいる自分とはなんと違うことか。そんな気持ちをごまかすように、言葉が少しぶっきらぼうになってしまう。
「……それは悪かったが、な。巻き込みたくなかったと言ったろう?」
「ふふ、はいはい」
 肩をすくめ、伸びをしながらケーテはイェンの言葉をさらりと流す。そのまま、すたすたと窓際に歩み寄り、雲ひとつない空を見上げた。目を閉じて、風を感じているのだろうか。
 イェンはそんなケーテから目を外し、他の人間のほうを見た。
「はー……すごい……」
「……つまらん話だったろう?」
 呆けたような口調のロシェルに、イェンは苦笑をする。ぷるぷると首を振るが、上手く言葉にならないロシェル。口の中で二三度言葉を転がしてから、ぽーっと言う。
「すごく……仲良かったんですね。明け方までなんて」
「そっちか!」
 頬を赤らめながらロシェルの放った言葉に、思わずツッコミを入れてしまう。しかし、それに乗るように、
「そうなのよねー、意外とむっつりよこの男」
「ばっ、ケーテっ!?」
 窓際から、くすくすという笑い声と共に自分を指差す赤い悪魔一人。赤い悪魔と緑の悪魔。舞台が今になっても周りは敵だらけか! うがぁ、と頭を抱えながらへなへなと机に突っ伏しかけるイェン。と、先ほどから発言がない人物に気が付いた。
「……リア、やはり聞かないほうがよかったか?」
「あっ、い、いえ! その……ケーテさんと仲良かったんですか?」
「お前もそっちか!」
 本格的に机に突っ伏しながらイェンはため息を吐く。ほとんど、諦めの境地だった。机の表面の硬さが、額に優しくない。
「だって、そのー、やっぱり、なんと言いますか、ですねー?」
「……いや、何も言わなくていい」
 人差し指同士をつんつんと合わせるリアに、首だけ振り返ったイェンはため息混じりに言う。ちなみにその後ろではケーテがロシェルに当時の恋愛模様などを話していたりするが、イェンは極力聴かない振りをしている。
 ふぅ、と体を起こし、少し伸びをしてからイェンは紅茶のカップを口に運んだ。いつの間にかシナモンスティックが漬けられていて、そんなリアの心遣い(本人には心遣いのつもりはないだろうが)に、少し心が満たされた。冷めた紅茶を一気にあおる。
「イェン様……」
「ん? 何だ」
 先ほどまでと違う声でリアに呼ばれ、イェンはそちらを振り返る。
「あの、私を生んでいただいて……ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げるリア。イェンは優しい表情で、リアに問う。
「……今日の話は、無駄ではなかったか?」
「はい、私が生まれた、その理由も分かりましたし……それに、私、リアさんに託されたんですよね……生きる、っていうこと」
「……かもしれんな」
「きっと、そうですよ」
 にこっと、リアは胸に手を当て、微笑んだ。きっと、リアの言葉に根拠などない。けれど、そうして生まれ、今まさに生きている彼女だからこそ感じられるものもあるのだろう。それは、イェンには及びも付かないが、

 くぅー。

「……あ」
 唐突に、大きな腹の虫が聞こえた。周りを見回してみる。
「……ロッシか」
「えへへ……お恥ずかしい」
 舌をペロッと出しながら、ロシェルはこつんと頭を叩く。
「ふむ、気づけばいい時間だな。遅めの昼にするか」
「あ、それならいい話を聞かせてもらったお礼に私が作るよ」
 ロシェルがはい、と挙手しながら宣言する。特に断る理由もなく、イェンは一度だけ一同を見廻してから頷いた。
「あ、ロッシさん手伝いますよー」
「え? あ、ありがとーリアちゃん! ぎゅー」
 リアが声をかけると、ロシェルはすごく嬉しそうに抱きつく。それをあはっと笑顔で受け止めながらリアはロシェルを厨房へと導いていった。
 それを見送るケーテとイェン。リアの様子を眺めながら、ケーテは目を細めた。
「……リア姉さんは、やっぱり正しかったみたいね」
「どうだかな……ただ」
 イェンはそこで言葉を切り、一度だけ考えてから。
「あの子を生み出したことを、私は後悔するまいさ」
「そうか……そうね」
 ケーテも頷きながら、階下に消えた二人の方をただぼんやりと見つめていた。

 厨房で包丁を振るうロシェルを手伝いながら、リアは思う。
「リア、さん……か」
「んー? どうしたのリアちゃん?」
 とんとんとん、と小気味よい包丁のリズムに乗せて、ロシェルが振り返りながら訪ねる。刃物を使うときは余所見はやめましょう。
「あ、なんでもないです、なんでも」
 ぱたぱたと手を振るリア。そう? と首をかしげながら、ロシェルは再び料理に戻っていく。
(お姉さんは……イェン様を信頼して、イェン様もお姉さんが好きで……)
 だからこそ、自分が生まれた。それは間違いない。
(……なんなんだろう、変な、感じ)
 過日の、泉で感じたときよりも、今はずっと強くなっている。この、もやもやした、言葉にできないような感覚は。
(リアさん、なら……分かるのかな。どうして、こんなになるのか。どうしたら、このもやもやが解決するのか……)
「……ちゃん!」
「……え?」
「リアちゃん! 噴いてる噴いてる!」
「あ、は、はいぃっ!? ごめんなさい!?」
 ロシェルに声をかけられ、慌てて鍋の火を止める。あわや大噴火という鍋はなんとか沈静化し、ぽつぽつと気泡を発するのみに戻る。
 ほっと胸をなでおろすリアに、ロシェルは心配そうに歩み寄る。
「どうしちゃったの、リアちゃん? 大丈夫?」
「あ、はい、えっと、ちょっとぼーっとしちゃって……」
 言いながら、リアは思う。

 本当に、自分はどうしてしまったのだろう。


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