リアが特設のホムンクルス研究施設に移ったといっても、イェンたちの学院生活になんらの影響を与えるものではなかった。
「イェン、今一人?」
「今といわずいつでも一人だがな」
奇特に話しかけてくるケーテに、イェンは苦笑気味に肩をすくめる。自分の話しかけづらさは自覚していたが、さりとて特に直す気もなかった。
「お姉さんは今日は?」
「今日も研究施設に泊まりだそうだ……が、まぁまた抜け出してはくるだろうがな」
「あはは……」
ケーテも苦笑しながら、ぽりぽりと頬をかいた。あの勉強会以来、なんとなくイェンの部屋に三人が集まるのはもはや定例になっていた。そこで三人は勉強をしたり、ただただ喋ったり、三人とも無言で本を読んだりと、特に目的もなく時間を過ごす。もっとも、無言の読書は最年長のはずのリアが真っ先に飽きてしまい、長続きしなかったが。
「あ、のさ。イェン」
「ん?」
少し口ごもってケーテが言うのに、イェンが振り返る。ケーテは少しだけ考える素振りをしてから、言葉を接ぐ。
「今日のお茶菓子、なんにしようか」
今日のお茶菓子。いつからだか定かではないが、三人で集まるときにケーテが手製の茶菓子を持ってくるということも既に慣例になっていた。話題の種にもなるし、話しながらつまむのにはちょうどいい。茶はイェンの部屋にあるものを使い、ケーテのお茶菓子で楽しむお茶会。ちなみにリアは食べ専だ。
「ん、別になんでも構わんぞ。私も特に好き嫌いはないし、姉さんは何でも食べるからな」
「あ、そ、そう……特に好きなものとかは」
「む……特に好きか……」
腕を組んで考えてみる。その間、ケーテはちらちらとイェンの様子を窺っていた。こつこつと、二人分の足音だけが廊下に響く。窓の外の、もはや夕刻に差しかかろうかという風景を横目でちらりと眺めながら、イェンは腕組みを解いた。
「特にないな」
「あらっ……」
その場で盛大に肩を落とすケーテ。膝から崩れそうになる体を何とか持ち直しつつ、頭を抱える。
「……まぁ、そういうヤツよね……」
「ん?」
「なーんでも。じゃ、適当に何か作って持っていくわ」
「ああ、楽しみにしている」
「リア姉さんが、でしょ?」
「いや、私も楽しみにしてるさ」
笑いながら言うイェンに、ケーテは慌てて目をそらす。赤い髪に赤い顔、巨大トマトの完成だった。
「そ、そう。あ、あんまりたいしたものは作れないかもだけど、ちゃんと持ってくから」
「ん? ああ……しかし、大丈夫か? 何か具合が悪いのなら無理には……」
「大丈夫だから!」
心配そうにケー手の顔を覗き込むイェン。そんな彼を、半ば睨むようにしながらケーテはきっぱりと言い切る。気圧されながらイェンが「あ、ああ」と頷くと、ケーテも力強く頷いて単身足音高く行ってしまった。後にぽつんと残されたイェンは、眉根を寄せる。
「本当に、大丈夫なのかケーテ。……心配だな」
「なーにが心配なのー?」
「……差し当たっては、姉さんの気配の殺し方が心配だ。いつ寝首を掻かれるかわからん」
いつの間にか隣に居た姉の姿に脱力しながら、イェンは三白眼。
「姉さん、今日はもう終わりか?」
「まー途中だけど抜けてきた」
「……いつものことか」
それで片付けられるのもどうかと思うが、この姉に関してそんな瑣末な点を指摘していたらいつまでたっても始まらないし終わらない。リアはそんなイェンに拘泥することなく、マイペースに足をぶらぶらする。
「ねぇイェン。ケーテちゃんのことどう思ってる?」
「ぶは!?」
突然の問いに、イェンは思わずむせ返ってしまう。涙目をこすりながら、非難がましい目で姉を見るが、そんなことを気にする姉ではない。
「お姉ちゃんには、お見通しだけどね」
「……何を言っているのだか」
イェンはため息をつきながら首を振る。リアはちょっときょとんとした顔で、
「でも、ケーテちゃんの気持ちには気づいてるんでしょう?」
「がほっ!?」
せっかく整えた息が台無しだった。再び涙目でリアを睨むが、やはり気にするような姉ではなかった。人差し指を立て、にっこり微笑みながら。
「あ、そうそう。今日は夜ちょっと行けそうにないから。抜け出してきちゃってる穴埋めね」
「な、ちょ、姉さん!?」
「私が行かなくても、ケーテちゃんが居るでしょ。二人でお茶会楽しみなさい」
一方的にそれだけ告げると、リアはすたすたと歩いていってしまった。ぽつねんとその場にやはり一人残されるイェン。
(突然何を言い出すんだ、あのアホ姉は……)
少し火照った頭を冷やすように、廊下の窓を開けて外の空気を吸う。
(しかし……姉さんが来ない。ケーテと二人っきりか……)
思い、そして慌てて首を振るイェン=オーリック。頭を冷やそうとして、却って紅潮してしまった。イェンは一度大きなため息を吐き、自分の頭の中を覗き見るようにうつむきながら、静かに自室へと足を向けたのだった。
部屋で、イェンは一人、いつになく落ち着かなかった。
(アホ姉め……)
心中でリアを呪うが、だからといって心のさざめきが収まろうはずもなかった。むしろ姉を思い浮かべるたびにその言葉が去来する。
『でも、ケーテちゃんの気持ちには気づいてるんでしょう?』
(……うーむ)
部屋の隅にぽつんと置いてある椅子に腰掛けて、イェンはため息をついた。ケーテの、気持ち。果たして自分は気づいていたのかいないのか。そして、自分はケーテのことをどのように思っているのか。
なんとなく悟ってはいた。でも自分の都合のいいように解釈をしているような気もしていた。それだけ思いやるということは彼女のことを憎からず思っていることの証明なのかもしれないが、それすらも自分の都合のいい解釈かもしれない。
(……むぅ)
思考は堂々巡りだった。ただただ、そんな思考の迷路に自分を詰め込んだ姉への恨み言が浮かぶばかり。
「はぁ……」
ため息で思考を打ち切り、イェンは天井を仰ぐ。木目の数が妙に気になったり、色の濃淡がやたらと目に付いたりした。
こんこん。
「イェン、入るよー」
言葉とともに、扉を開けて入ってきた者。ケーテ=ハイニヒェン。まぁ、リアがここに来られない以上、ケーテ以外にはありえないのだが。
「む、ケーテ」
「む、とはご挨拶ねー。あれ? リア姉さんは遅刻?」
きょろきょろと部屋の中を見回しながらケーテは後ろ手にドアを閉める。少し目を合わせづらく、イェンもなんとなく部屋の中に視線を泳がせた。
「姉さんは、今日は来られないんだと」
「あ、そうなんだ」
ふーん、ともう一度部屋全体を見回し、いつもの通りに机の上に手荷物を置く。彼女の仕草は、二人であろうと三人であろうと変わらないらしかった。そんなケーテに、イェンも少し肩の力が抜ける。
「ふぅ……」
「ん? 何かお疲れかしら?」
ケーテはぱっぱとお茶の用意をしながら尋ねる。それにイェンは苦笑を浮かべながら返答。
「いや、姉さんが変なことを口走ってな」
「変なこと?」
「ん、ケーテがこうやって私によくしてくれているのには理由がある、とな」
「ふーん、イェンはどうしてだと思う?」
淡々と尋ねてくるケーテ。イェンも軽く肩をすくめる。
「私には分からんが……姉さんは、ケーテが何か気持ちの問題だ、みたいなことを言っていたな」
「へ、へぇ?」
ケーテが若干頬をひくひくさせながら続きを促す。そんなケーテの変化を気にしないのか気付かないのか、イェンは苦笑しながら続けた。ただの世間話を紡ぐように、本棚に歩み寄りながら。
「好きならば、ずばっと言うだろう、お前は。まぁ、そうでなくても大事な友人だ。友として大事にしてくれている、というところか」
びしりと。イェンの部屋の窓に亀裂が入った。しかしイェンは気付かない。本の背表紙を指でなぞり、うち一冊に手を伸ばそうとしたイェンの手をがしっと掴む細い腕。
「ケーテ?」
「……ぐぐ」
涙目だった。爆発しそうな何かを必死にこらえる様な表情。イェンはその様子にたじろいだ。うろたえたまま、どう声をかけようか、言葉を捜しているうちに。
ケーテが、爆発した。
「か、勝手に友達に固定するなぁっ!」
きーんと、耳鳴りがした。イェンはその声に気圧され、二三歩後ずさる。それを追いかけて、すかさずケーテがばん、とイェンを本棚に押し付ける。
「鈍い鈍いとは分かってたけど……! だからって勝手にあきらめさせるなっ! 必死で、必死で我慢してたんだから!」
「ケーテ……?」
「最初は、よく分かんなかった。でも、一人で平気でいるイェンがほっておけないって思って、ずっと気になってて! いつもイェンを見てるようになって!」
ともすれば嗚咽の混じりそうなほどに息を溜め、きっとイェンをにらむケーテ。イェンはその言葉に混乱をするだけだった。頭のまとまらないまま、言葉がこぼれる。
「きっかけは、あるのか?」
「ないわよそんなもん!」
イェンの言葉をさえぎるようにしてケーテは叫ぶ。腕に食い込むケーテの指。
「いつの間にか好きになってたんだから! いつの間にかイェンの隣にいるのが嬉しくなってたんだから! きっかけなんてあるはずないじゃないっ!」
唇が合わさってしまうのではないかというくらい詰め寄って、ケーテはイェンに食って掛かる。彼女自身も、頭の中は真っ白だ。自分が何を言っているのか、誰に言っているのかをほとんど理解していない。お互い白紙のまま。
「ケーテ……私は……」
「でも……我慢するしかないじゃない。イェンは、そんなのがどうでもいい、むしろそんなのは避けてた。だから……私は、我慢するしかないじゃない」
「淡々としていたのは、演技だったのか……」
思い返してみれば、確かに普段から過剰に淡々としていた気がした。そして、これがケーテの本心、うそ偽りのない気持ちだとするなら、そのメッキはすぐはげていた。
「……でも」
万力のような力で、顔をがしっと掴まれる。ケーテの顔に躊躇いや戸惑いはない。ただまっすぐにイェンの顔を見つめていた。
「イェンが、いけないんだ……! 私の我慢を……簡単に崩壊させてくれちゃって!」
そのまま、顔が近づいてくる。イェンは何もできない。何を言う暇も与えられない。
「ん……」
「…………」
二人の唇が、ぎゅっと触れ合う。そこに込められた意味もお互い分からないままに、真っ白な口付け。やがて、名残惜しそうにゆっくりと、ケーテの方から唇を離した。
「イェン……」
「……ああ」
ぼーっとしたまま、ケーテの声に吸い寄せられるようにして、もう一度口付ける。今度は、長く、深く。ぼーっとしていく中、逆に二人とも少しずつ頭の熱が引いていく。冷静になっていく。
それでも、口づけをやめなかった。
イェンは、理解していた。自分は今、ケーテと口付けていると。それの意味することも。
ケーテは、理解していた。自分は今、イェンに口付けられていると。それの意味することも。
やがて離した唇。己の唇を指でなぞりながら、よろめく足取りでケーテはイェンから離れようとする。
「あ……」
くたっと、腰から折れ、その場にへたり込んでしまう。しかし、その目の先にあるものは……イェンの部屋の、ベッド。その視線の、意味するものは。
ケーテが、イェンを振り返る。紅潮した顔で、瞳を潤ませたまま、ただ無言。流石のイェンであっても、その意味には気付く。
「ケーテ……私で、いいのか?」
「イェンじゃなきゃ……いや」
二人、わずかに見つめあう。助け起こそうと差し伸べられたイェンの手を、ケーテが引っ張った。
「ん……」
自分の前髪にくすぐられ、イェンはぼんやり薄目を開ける。どうやら朝らしく、カーテンを閉めた窓からわずかに漏れ出る陽光で部屋の中が微かに見える。
さわさわと、頭を撫でる手があった。そちらの方に目をやると、そこには優しげな瞳でこちらを見つめながら、イェンの前髪をいじっているケーテの顔。
「……む、ケーテ……?」
「へゃっ!?」
声をかけた瞬間、ケーテは大きく肩をすくませ、慌ててそっぽを向いてしまう。頭を撫でていた手は、そのままシーツを掻っ攫い、目にも止まらぬ速さで手繰り寄せた。シーツに体をくるみ、綺麗に切り揃えられた赤髪が、肩口で僅かに揺れている。
「お、お、起きてるならそう言ってよ……」
「……ふむ」
未だ眠気とだるさでうまく回らない頭のまま、隣にいるケーテの姿をぼんやりと眺める。朝の光に白く浮き出る肌、首筋から、耳の裏までが朱を帯びて、少し決まり悪そうにちらちらとこちらを眺めては目をそらすケーテ。
イェンは、少しだけため息を吐く。いつもの嘆息ではなく、別の意味合いで。今まで、長いこと近くにいたと思っていたが、気付かなかった。
「ケーテ、綺麗なのだな」
「ばっ……」
朱に染まっていた顔が、燃える赤髪と同じくらいに、いやともすればそれ以上に真っ赤になる。右手はシーツを体に押し付けたまま、左手でどんとイェンを突き飛ばす。
「い、いいから、その、ちょっと、着替えてさ……えっと、その」
「……それは、ケーテも同じ気がするが」
お互い、一糸纏わぬ姿だった。しかし、その言葉にことさらぎゅっと体にシーツをおしつけて、ケーテは赤い顔を向ける。
「いいから、ちょっとまずはどいてよ……」
言いながら、じりじりとケーテはベッドの上で体を動かす。ちらちらと動く目線の先を追うとそこには。
「……血?」
「わー! ばか見るなー!」
ほとんど半泣きになりながらケーテはばさっとベッドの上に倒れこむ。シーツの上に一点、赤く滲む染みを体で覆い隠しながら、恨みがましい目で睨んでくる。
「……悪かった」
「うー……がるるる……」
ベッドの上で体を丸め、威嚇するケーテ。イェンは少し嘆息しながら、いそいそと服を着ていく。おおよそ外に出ても大丈夫な格好になってから、イェンはケーテを振り返った。
「では、私は外に出ているから……そのうちに着替えればいい」
さすがに、着替えるのを見ているわけにも行くまい。イェンはそれだけ告げて、部屋を出ようとする。
「あ、待って」
「ん?」
振り返るイェン。眼前にケーテの顔。
そのまま、口付けられる。
「……っ!?」
完全に不意を付かれ、イェンは頭が真っ白になりながら後ずさり、ぎこちない手つきでドアを開け、少しはにかんだケーテの顔を少し惜しみながらゆっくりドアを閉める。
「……はぁ……」
ドアに背中を預け、イェンはへたり込んだ。今頃になって心臓が暴れ始めていた。先ほどのキスで、昨夜のことが脳裏を次々とフラッシュバックしていく。
冷静なつもりだったがそうではなかった。実感がなかっただけだったのだと思い知る。イェンは天を仰ぎ、今更に赤くなった顔を覆いながら頭の中のスライドショーを打ち切ろうと試みる。
と、突如背中が引っ張られる感覚。否、背中の支えがなくなる感覚がした。ばたりと、その場で後ろに倒れこみかける。慌てて、手を床につき、体勢を立て直すイェン。
「……なにやってるの?」
「……深く気にするな」
扉を開けたケーテと、上下さかさまでの対面。お互いため息をつき、イェンは改めて立ち上がる。何か言いたげなケーテの顔に、言葉を捜す。
「……」
「……」
なんとなく、見つめたままお互いうまく言葉も見つからず黙ってしまう。
「……行くか」
「……そだね」
幸いにして、二人とも荷物はちゃんと持っていたし、それがなくても講義は何とかなる。なんとなく言葉も交わさないまま、二人つかず離れずで歩き出した。
「へぇー、良かったじゃないケーテちゃん」
昼休み、食堂のテーブルに頬杖をつき、リアはストローを咥えたままにっこり微笑んだ。
「……いや、姉さん。研究所はどうしたんだ」
「昼休み」
「なんだ、そのへんはちゃんと配慮されているのか」
「いんや、自主的に」
「……」
頭を抱えるイェンに、リアはぴっと親指を立てた。昼食のパスタのミートソースがぴっとはねる。
「……でも」
ふっと、リアが優しい目になる。その瞳で、二人を眺めるリア。
「ほんと、私としては良かった。二人とも、私の大事な人だから」
微笑みながら、リアはケーテに向き合う。
「ケーテちゃん、イェンは知ってのとおり朴念仁だし、強いようで意外と弱い子だから、あなたが支えてあげてね」
「……リアさん」
少し頬を赤らめ、しかしケーテは確かにうなずく。その様子に、リアも満足そうにうなずき返した。
「イェンのことは、ずーっと心配してたからね。もう一生一人なんじゃないかって」
「……大きなお世話だ」
苦笑しながらイェンは反論する。
「だいたい、私から言わせてもらえば、姉さんのほうがよっぽど心配だ」
「私は、支えを必要としないもの」
きっぱり言い切られてしまった。そして、言い切られて納得しかけてしまった自分に、イェンは改めて頭を抱える。
「でも、これでようやく心残りはなくなったかな」
すっきりしたように伸びをしながらリアは笑う。その笑顔はすごく晴れやかだ。
「姉さん……別に娘を嫁に出す父親ではないのだから。むさいことを」
イェンもケーテも苦笑する。
「いやー、研究もかなり大詰めだからね。憂いのある状態では、できないもの」
「姉さんに憂いっていうものがあることのほうが驚きだ」
イェンの言葉に、リアは満面の笑みを崩さないままに弟に近づいていき、その頭をロックした。
「ひどい弟だなーイェンは。お姉ちゃんはそんな子に育てた覚えはないぞっ」
「いだだだだだだだっ、姉さん! こめかみは本当に痛いからいだだだだだだっ!? ケ、ケーテ。助けてくれだだだだだ」
「あーあ、仲良くて妬けちゃうな」
「何を言ってるんだケーテは……! 周りは敵ばかりかっ!?」
ぎゃいのぎゃいのと騒ぐ。イェンの学院での生活一年目は、そんな日々だった。そんな日々が続いた。
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