「それじゃ……お邪魔しましたー」
「気をつけてな」
「あはは、男子寮と女子寮棟続きだけどね」
ケーテは苦笑しながら、イェンの部屋の扉を閉めた。若干名残惜しそうな顔をしていたのはイェンの気のせいか。
がちゃ。
再びその扉が開く。
「……ん、ケーテ?」
「あ、あの。今日はありがと。つ、付き合ってくれてさ」
「あ、ああ……」
少し面食らうイェンから、ケーテはふいっと視線をそらす。少しの沈黙、聞こえるのはリアがごろごろ部屋を転がる音だけだ。
しばらく後、ケーテはまた扉をゆっくり閉ざし歩き去って……。
がちゃ。
「なんなんだケーテ」
「あ、えっと。おやすみ」
今度こそ、ケーテは足音も高く歩き去っていった。最後の方は若干顔が紅潮していた気がするが、知恵熱かなにかだろうかとイェンは考える。
ごろごろごろごろ。
(しかし、まぁ……いい刺激にはなったか)
一人で勉強するより、複数で勉強する方が互いに刺激しあえていいのかもしれない。特にイェンは、そこそこ自力で理解できる人間であるだけに、自分の見落としには気付きにくいタイプだ。
ごろごろごろごろ。
(そこへ行くと、ケーテが居てくれたのはよかった。彼女は聡い。よく気付く)
今日の勉強会のことを振り返って、イェンは何となく頷いた。何度となく、彼女に間違いを指摘され、しかし彼女自身はけしてイェンほど勉強に精通しているわけではない。それはつまり、潜在的な何かなのだろう。言い換えれば、天性かもしれない。
ごろごろごろごろ。
「それで……姉さんは何をしているんだ?」
「あ、やっと気付いた」
ようやくごろごろを停止して、リアは不満そうな顔をイェンに向けた。随分前から気付いていはいたが、それを認めたところで何がどうなるわけでもない。イェンはそう結論付ける。
「目が回ったよ」
「知らん!」
勉強のしすぎ……ではないところで頭痛を覚えるイェン。頭を抱えてうずくまると、その頭をぽんぽんと撫でる姉の手。なんかもう全てに抵抗する気をなくし、イェンはただ撫でられるがままだ。
「……と、そういえば姉さん」
「なに? 弟」
「……はぁ。ええとだな……」
もはや話の腰だの頭だのは、気にするだけ無駄だろう。
「姉さん、もう研究生だろう? 何の研究をしているのか、そういえば聞いたことがなかったな」
「あ、そだっけ」
リアはぽんと手を打って、応える。
「人を作ってるの」
「……は?」
「ホムンクルス、って聞いたことない?」
リアの瞳は、いたずらっ子だった子供のときと変わらない輝きを帯びたままだった。まるで、新しいおもちゃを自慢するかのように笑う。
「ホムンクルスっていうと……あの?」
「そ、禁忌指定なんだけどね」
禁忌指定、その言葉すらリアの口から発せられるのは、まるで「お母さんにはナイショだよ」と言っているかのような、そんな雰囲気だった。
「なんでまた、そんな……」
「ステキだと思ったから。それに、研究や探求は先にあったの。それを後から来た人間が勝手に縛るなんて、ナンセンスだわ」
「それは危険だからでは……」
「もちろん最初は、軽い気持ちだったわ。でもね……」
言ってリアは目を閉じる。胸に手を当て、自らの鼓動を確認するかのように。
「もう、私の中で理論が出来上がってしまっている。”この子”は、生まれることが出来るの……私が、できるなら生んであげたい。私は大事にしてあげたい……その気持ち、イェンにも分かるかな?」
「姉さん……」
リアは、研究を”この子”と呼んだ。それはまるで母親のように慈しみを込めて。大事に育ててきたものを、ぎゅっと抱きしめるように。その包容力は、イェンも知っている。何のためらいもなく、何の拘泥もなく。限りなく優しく包み込むその両の腕。
「ふふ、イェン。私とあなただけの、ヒミツだからね」
そう言いながらリアは微笑んで、ちょんと人差し指をイェンの唇に乗せる。なんとなくくすぐったかった。
と、突然リアがドアの先を見る。遠くから微かに聞こえてくる足音。
「やば、寮長だ……! じゃ、イェン。できたらイェンに真っ先に見せてあげるからねー」
そう告げるや否や、リアはとたたたたっと走り出し、迷うことなく窓から外に身を投げた。
「……ってここは六階だぞ!?」
慌ててイェンは姉が飛び出した窓から身を乗り出し、下を覗き込む。そこには、いつ用意したのか、シーツを束ねて縄にしたものを伝ってするすると降りていく姉の姿。下まで降りたところでくっとシーツを引っ張る。それだけでシーツはいとも簡単に窓枠から外れ、リアの手中に収まっていく。
「……あのなぁ。脱獄囚ではないのだぞ……」
イェンは頭を抱えると、窓枠に額をぶつけるようにしてその場に崩れ落ちたのだった。
試験の翌日の朝というのは、普段とは雰囲気がまったく違う。学徒が一つの掲示板の下にひしめき合い、己の順位・点数に一喜一憂する。本気で悔しがり、あるいは喜ぶ人間もあるし、ただ話のダシに使っているだけのものもある。
その中、まったくその掲示板に興味を示さずに素通りしようとする青年が一人。
(まぁ、今見たところで点数が変わるわけでもないしな)
もともと順位というものにはまったく拘りがなかったし、点数の合計値は教場で返却される答案を見ればわかる事だ。合理的に考えればそうなのだが……。
「おいイェン=オーリック!」
学校内ではイレギュラーであることも、イェンは重々承知している。ため息混じりに振り向くと、そこには得意げに仁王立ちの同級生。
「今回の試験、俺は絶好調だった! うまくはまって、自分でも予想外に正答できたらしくてな……学年で8位だったぞ!」
「それは僥倖だったな……オリヴァー」
肩をすくめ、きびすを返そうとするイェンの肩をがしっとつかむオリヴァー。
「ま、待て。お前は何位だったんだ?」
「知らん」
「知らん……って。調べれば分かることだぞ!?」
「そんなに知りたいならそこの掲示板でお前が見ればいい。私は興味がない」
気のないイェンに、オリヴァーはにやりと笑う。この消極をイェンの自信のなさと取ったのだろうか、自らの優越をあらわに、言葉をつむいだ。
「ふん、俺よりできてなくてもそう悲観することはないさ、イェン=オーリック。なにせ俺は学年8位だからな。俺の上に行けるのはこの学年でもたった7人ということだ。」
「その七人のうちの一人だけどね、イェンは」
会話に割り込んできた女性の声に、オリヴァーはぎょっと振り返る。その声の主は、オリヴァーのことは半分無視でイェンに軽く手を上げた。
「おはよ、イェン」
「……ああ、ケーテか」
イェンも軽く手を上げて返す。
「掲示板を見てきたのか?」
「ええ、やっぱり気になるからね。ついでにイェンのも見てきたの」
「そうか」
「4位だって。どうだ」
にやっとオリヴァーに得意げな笑顔を向けるケーテ。オリヴァーはそんなケーテに歯噛みするが、何も言い返せない。
「……なんでケーテが得意げなんだ」
「そ、それは別に……いいじゃない」
むっとしてケーテはそっぽを向いてしまう。イェンは若干困惑して頭を掻く。
「……解せん」
「いいのっ! そこは気にするな!」
半分、取り付く島がない。イェンがどうしたものかと考えているそのとき、横合いから悔しそうな声が聞こえてきた。
「く、お、お前らどうせ、リアさんに勉強でも見てもらったのだろう……!」
「ああ、それは」
「み、見てもらったのか!?」
ぎりぎりという歯軋りの音さえ聞こえてきそうな形相のオリヴァー。こっちはこっちでどうしたものか。一触即発の雰囲気に、掲示板の周りの人間も静まり返っている。
やがてオリヴァーはふんと鼻を鳴らして、肩の力を抜いた。
「自分の力だけではできんということだな! やはりお前はリアさんのお荷物だ」
「……いや、どちらかというとあっちの方が」
「とにかく! 次はこんな醜態はさらさないからな!」
一方的に言い放つと、オリヴァーはづかづかと足音も高らかに去っていった。
「……なんだったのだろうな、あれは」
イェンは若干呆れ顔で、隣のケーテに話し掛けた。ケーテは少し考えてから、苦笑交じりに告げる。
「彼、リアさんのファンクラブ名代らしいわよ」
「……は?」
「イェンがうらやましいんじゃない?」
「……解せん」
イェンは腕を組んで本気で考え込んでしまう。あの姉にファンクラブがあるというのも驚きだし、それで自分がうらやましがられるという理由も分からない。
「でも、少し分かるかな……私も、リアさんが羨ましいし」
「ん? どういうことだ?」
イェンが疑問をぶつけると、ケーテは顔を紅潮させながらぶんぶんと手を振った。
「あ、いやその、なんでも! なんでもないの!」
「……解せん」
「何でもないって! ほら、もう一限始まっちゃうよ!」
イェンから顔をそらしながら、ケーテはイェンのことを促す。イェンは首をひねりながら、彼女の後につき従って教室に入っていった。
昼。
「イェン、ちょっとイェン」
「……ん、ああ……」
名を呼ばれ、ゆさゆさと肩を揺すられ、イェンはようやく意識を覚醒させた。
「起きた?」
「ん……いや、寝てはいなかったが……ああ、なんとかな」
大きく伸びをし、首を左右に揺すって、ぼーっとする頭を目覚めさせる。
「珍しいねイェンがぼーっとするなんて。もう昼よ?」
「ああ……そうなのか」
未だ焦点の定まらない目で、机の上のものを片付けていく。こんな状態でもきっちりノートは取っているあたりがイェンのイェンたる所以かもしれない。
「随分眠そうだけど、なにかあったの……?」
「ああ……いや」
何かは確かにあった。昨夜、イェンを一睡もさせなかった何かは。
(あのアホ姉め……)
禁忌指定の研究。その言葉の重みと、リアの言動の軽さのアンバランスがイェンの脳をちくちくと刺激し続け、押し潰し続けた。姉は嘘をついているのではないかとも思ったが、イェンを驚かせるために嘘をつくなど、あの姉にはありえない。
嘘などつかなくても、平素の行動だけで十分に常軌を逸している姉がわざわざ嘘などつくだろうか。
(……それはそれでどうなんだ)
頭を抱えて嘆息。
「ね、イェン。私、お弁当作ってきたんだけど」
ケーテがイェンの袖を引っ張りながら宣言する。それで、イェンもようやく今が昼休みだということを思い出した。
「ああ、そうか……昼の手配をせねばな」
ホムンクルスの件が気になってろくに喉を通るとは思えなかったが、イェンは立ち上がる。食事の手配はしていないから、食堂ということになるだろうか。
「ん、どこ行くの?」
「どこって、食堂だが。昼の手配忘れていたんでな」
「だから、お弁当作ったんだってば」
しつこくそう言うケーテに、イェンは首を捻る。しばし考えて、ぽんと手を打った。
「ああ、食堂まで一緒に行くか? 席を取っておいてくれたらあとでそこに向かう」
「っ……!」
イェンの言葉にケーテは、髪を逆立たせんばかりに身をすくめた。が、しばし目を閉じて考えての後、嘆息しながら。
「はぁ……今から行ってろくなものが残ってるわけないでしょ」
「む……まぁ、それはな……」
ここの食堂の競争率はかなり高い。王立の学校だけあって充実したメニューではあるのだが、作り手によって味にばらつきがあり、やはり人気のメニューを逃した者の末路は目も当てられない。
みんなが教室から出て行ってしまっているような時間だ。今から行っても確かにろくなものは残っているまい。イェンは、顎に手を当てて考える。
「だから、私が弁当分けてあげるからって」
「む、ああそうなのか……いや、それなら助かる」
ようやく伝わったか、とケーテは盛大な溜め息。いそいそと弁当を広げ始める。
と、イェンは視界の片隅に人影を見つけた。ちょいちょいと手招きをするその人は。
「ん、姉さん?」
「おーい、イェンー。昨日の続きー、ホムンクルス見に研究室に来てみないー?」
教室の入り口から大きな声でイェンを呼ぶリア。まったく周囲に拘泥している様子はない。イェンは慌てて立ち上がった。
「ば、ちょ……す、すまんなケーテ」
「へっ!?」
机の上に全部のセッティングを終えたケーテがイェンのほうを振り返る。そこにはすでに誰もいない。当のイェンはと言うと、すでに教室の入り口まで走り寄ってしまっていた。
「姉さん……! 一応禁忌指定なんだろう、そんなに大声で叫ぶな……っ!」
「はーいはい、ごめんなさいねー。というか時間もないからさっさと行くわよー」
言いながら、リアはがしっとイェンの首根っこを掴む。
「ぐ……!? す、すまんケーテ……! 一人で食べていてくれ……!」
教室の中に向かって手を伸ばしながら、イェンはずるずると引きずられていってしまった。後に残されたケーテはしばし呆然としていたが、やがて肩をふるふると震わせ、呟く。
「ふふ……ふふふ……」
そばの窓ガラスがびきっと音を立ててひび割れる。青筋の浮かんだ額を隠すこともなく、ケーテは自らの弁当をきっと睨んだ。
「あーもー、二人前でも三人前でも食べてやろーじゃないのっ!」
彼女の叫びは、無人の教室に響き渡っていた。
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