第四章 遥かなる日々


 イェンは、椅子の背もたれを軋ませながら、天を仰いでいた。きぃきぃという音が、耳に心地よい。目を閉じながら、身体をゆする。
(……鮮明に思い出したのは、何年ぶりか)
 眉根を寄せながら、イェンは漠然と思う。数日前のリアに一瞬オーバーラップした少女の顔。今まで一度も忘れたことがない、しかしここ最近思い出すこともなかった顔。
「リア……か」
「はい?」
「おおっ!?」
 突然目の前に現れた顔に、イェンは思わず椅子ごと後ろに倒れそうになる。慌てて体勢を立て直そうとして。

 ごっ。

「お、おおお……」
「だ、大丈夫ですか、イェン様……?」
 強かに机に頭をぶつけた主のもとに、リアはおろおろと手を差し伸べる。イェンは頭を振りながら、よろよろと起き上がった。
「どうした、リア……何か用か」
「あ、あの、お茶を入れましたので」
「ああ……そうか、すまんな」
 イェンは咳払いをしながら、机の上に置かれたカップを手に取る。自らの狼狽を誤魔化すように、後ろの書棚に目をやりながら一口、紅茶を口に含んだ。
「……あの、イェン様?」
「ん……?」
 後ろから声をかけられて、リアを振り返る。腰の辺りで指をうにうにとさせながら、リアはちらちらとイェンを伺っていた。
「どうした? ……ああ、よく出来ているぞ、茶は」
「いえ、そうではなく……」
 いつになくリアの言葉の歯切れが悪い。イェンは怪訝に思って彼女の方に近づいていく。
「大丈夫か?」
「あ、身体も問題ないですし頭も大丈夫なんですけど……」
 言いながらも、少し迷う仕草。
「あの、イェン様……」
 リアは、やがて意を決したようにイェンの方を向く。
「『リア』って……何なのですか?」
 彼女の言葉に、イェンは一瞬面食らった表情を見せた。ぱちぱちと目をしばたたいた後、がしがしと頭を掻く。彼女の質問の意味を理解するまで若干の時間を要し、理解した後も若干の逡巡。イェンは少しだけ考えてから、口を開く。
「……ああ、それはな……」
 今まで、言わなかったことの方がおかしいのだろうか。イェンは苦笑する。無言で部屋の端に歩いていくと、窓辺に倒してあった写真立てを起こす。
 そこには、三人の人間が並んでいる写真。
 まだ若い、しかしこの頃から面影のあるイェンと……隣のショートカットの少女は若かりしケーテ=ハイニヒェン。そして、二人の頭を抱えるようにして笑顔を浮かべている黒髪の長髪。その女性を指で示しながら、イェンは言葉を紡ぐ。
「リア=オーリック。私の姉だ」
「イェン様のお姉さん……ですか?」
 リアに倣い、イェンも写真に目を落とす。写真の中、あの日見た笑顔のままの姉の姿がそこにあった。
(……褪せないものだな)
 写真を通して、まだ姉の声が聞こえてくるような錯覚。イェンも、知らぬ間に優しい苦笑を浮かべていた。
「イェン様……この方が、『リア』ですか……」
「ん、ああ……」
 イェンの隣に来て、写真をじっと眺めるリア。そのまっすぐな視線に、イェンは少しだけ照れくさい思いを感じる。まだあどけなさの残る自分の顔は、彼には正視に耐えない。
 少し目をそらして頭を掻くイェンに、リアが顔を上げた。
「この方は、今は?」
 無邪気に問いかけるリアに、しかしイェンは何故か憤りは覚えなかった。目を閉じ、静かな声で言う。
「……死んだ、もう随分前にな」
「死……」
 リアは呟いた。彼女が『死』というものを理解しているかどうかは分からなかったが、その言葉の響きは彼女の胸に何かを感じさせたらしかった。
「イェン様……この方は、どんな方だったんですか?」
 その言葉に、イェンは一度苦笑。自分の机のところまで歩いていき、静かに腰を下ろす。きし、と少しだけ椅子の背の軋む音。
「そうだな……彼女は、良くも悪くもすごい人物だったな……」
 そこで言葉を切る。頭の中で、彼女の思い出を反芻する。
「……いや、本当にすごい人物だったな……」
 しみじみと呟く。その頬を一筋の汗が流れていった。一体どんな思い出が過ぎったのだろう、少し肩が震えていた。
「イェン様?」
「ああ……リア。私の姉はな、お前の産みの親と言ってもいいのだぞ」
 少しだけ優しい笑顔を浮かべるイェン。リアは、言葉の意味を理解しかねているらしく、きょとんとした顔を向けるだけだ。
「ホムンクルスの研究をしていたのは、元々は姉さんなんだ。私は……そうだな、姉さんから引き継いだに過ぎん」
「そう、だったんですか……」
 自分の胸に手を当てるリア。そこには、ホムンクルスの生命の印である紅い宝石が埋まっている。
「イェン様……お姉さんは、どんな方だったんですか?」
 先ほどと同じ質問。しかし、求める答えは先ほどとは少しだけ違う。
「そうだな……何から話し始めたものか……」
 イェンは呟きながら、少しだけ冷えた紅茶で口の中を潤した。


「……ついに、ここまで」
 大理石の大門の前に立ち、青年は襟元を正した。
 ルランディア学院。眼前にそびえる白亜の塔は、すべての学問を志す人間の憧れ、ここに籍を置くために努力し、散っていった人間は数知れない。その中で、この青年はたゆまぬ努力を続け、ようやく勝ち取ったルランディアの籍だ。緊張するのも無理はない。
 しかし、その緊張は一瞬で破られた。

 ぶに。

「ようこそ、ルランディアへ」
「……姉さん」
 いつの間に横にいたのか、自分の頬をつまみ引っ張る女性に、イェンは脱力しつつも三白眼を向ける。意にも介さず頬肉を引っ張り続けるこの黒髪の女性こそ、イェンの姉、リア=オーリックだった。
「やっぱりイェンだった。いやー変わってないねー」
 三年ぶりに見る顔はイェンの記憶より少し大人びていて、しかし笑った顔は昔と変わらない。イェンは溜め息を吐き……
「って待て。やっぱりって何だやっぱりって。私だと確認せずにやったのか!?」
「あっはっは、いやーしかし大きくなったねイェン。私がここの寮に移る前はこんなだったのに」
 言いながら、手の親指と人差し指を一杯に広げる。おおよそ20センチといったところか。
「聞け! というか聞いてくれ! そもそもそんなに小さいはずがないではないか!」
「ほーれ、つむじぐりぐりー、下痢になってしまえー」
「それは迷信だ!」
 三年経って、少しは大人しくなったかと思っていたが。それはイェン青年の淡い期待だったらしい。むしろ願望と言うべきか。
 ともかくも、肩肘に入った力が全身レベルで抜けきっての、先が思いやられるイェンの学園生活のスタートであったこと、それだけは間違いない。

「ここが、魔術棟ね。一年生は三階、二年生が二階、三年生は一階が教室になっているから」
 硬質の床をこつこつと靴で叩きながら、二人並んで歩く。外から見るとただ荘厳だったこの建物も、中に入ってみるとさすがに学校だけあって機能的な造りになっていた。
「ふむ……姉さんは?」
「四年生は専門によって違うけど。だいたいが魔術研究棟とここの地階に棲息してるわね」
「……棲息って」
 姉に案内してもらって、構内を回る。最初に彼女に案内を申し出られたときには「何を大げさな」と侮っていたイェンだったが、なるほどこれは案内がなければ迷ってしまうかもしれない。
「食堂はここを出て……っと?」
 案内の途中で、リアは何かを見つけたようだった。イェンもそちらを見る。そこには、キョロキョロと辺りを見回す少女が一人。何かを探しているのだろうか。
 イェンが「なにをしているのだろうな」と姉に声をかけようと横を振り向く頃には、リアはその少女の下に歩み寄っていた。
「あなた新入生?」
「えっ!? あ、え、あっと……」
 突然話しかけられてビビる少女。しかし、リアはおかまいなしだ。
「ここは広いからねー、迷っちゃうのも無理ないよね。よかったら私が案内するけど」
「え、あ、その……」
「実はね、私の弟も今日からここの学生でね。案内なら、一人も二人も変わんないし、よかったらどう?」
「え、えっと……」
 少女が曖昧に頷くや否や、リアは少女の手を取って再びイェンのところに帰ってくる。にこにこしながら弟に報告。
「新入生拾った」
「……人間を捨て猫かなにかのように言うんじゃありません」
「彼女もどうやら新入生みたいよ。あ、魔術学?」
「あ、そうです。魔術学一年、ケーテ=ハイニヒェンって言います」
 ようやく自分のペースを取り戻したのか、少女は幾分か落ち着いて応える。応えるのはリア相手にだったが、名乗りの時には少女はイェンのほうを見ていた。
「む……私も、魔術学の新入生だ。イェン=オーリック、こっちの姉がリア=オーリック」
「あ、イェン。お姉ちゃんの仕事取ったな」
「……別にどっちが名乗っても問題なかろうに……」
「問題ないならお姉ちゃんに譲らないと、ね」
 胸を張っていうリアに、イェンは頭を抱えて溜め息一つ。そんな様子を、女生徒ケーテは少しおかしそうに眺めていた。
「さ、次々案内しちゃうから、ついてらっしゃいお二人さん」
 言うなり、ずんずんと先へ進んでしまうリア。慌てて新入生二人は後を追う。
「すまんな……身勝手な姉で」
 歩きながら、イェンは隣を歩く少女に一言詫びる。ケーテはふるふると首を横に振って、
「私もちょうど迷ってたところだったし。それにやっぱりちょっと心細かったから……イェンって言ったっけ。これからも、一緒になる機会あるかもしれないし、その時はよろしくね」
 物分りのいい少女だった。こちらに向かってぺこりと頭を下げてくる。
「そうだな……そのときはこっちこそよろしく頼む」
 イェンも、歩きながら少しだけ頭を下げる。イェンが学校に入って初めての友人となるケーテ=ハイニヒェンとは、こうして出会うことになった。

 講義そのものは単調であるものが多かった。イェンは、欠席することもなかったが積極的に参加することもなく、ただ内容の理解と応用に努めた。それ故にか、生来のぶっきらぼうゆえか周りに寄り付く人間は皆無と言ってもよかった。
「イェン、隣座るよ」
 約一名の例外を除いて。……否。
「イェン、ちゃーんと勉強してる?」
「リア=オーリックさん! ここは一年生の教室ですよ!」
 もう一人の例外が、教師の叱責を受けて「てへ」とか何とか言いながら教室を出て行った。もはや姉は、名前も顔もほとんどすべての教師に覚えられているらしかった。
(姉さん……一体、どんなことをしでかしていたんだ……)
「相変わらず、すごいお姉さんね」
「……ああ、他に形容の仕方が思いつかん」
 声を潜めながら苦笑気味に話しかけてくる隣のケーテに、イェンはただ溜め息。
「でも、成績は凄いんだよね」
 ケーテはしみじみと言う。
 彼女の言うとおり、リア=オーリックという人間はある種、天才と言う部類に位置する人間であった。試験は常に10教科12科目総合で1150点以上、それも証言によると講義などほとんど出ずにその成績らしい。とある人間曰く、「彼女の成績がこれで収まっているのは試験が100点までしかないからだ」とのことだ。青天井なら如何ばかりのものか。
(あの姉らしいというか何と言うか)
 イェンは苦笑する。幼い頃から、彼女の天才ぶりに翻弄された凡夫の自分としては、彼女の成績を褒められることは複雑だ。
「イェンも、成績凄いよね」
「私のは単に努力の結果だ。そこには因果がある……姉さんはその辺無視だからな……」
 リアが勉強している姿を、イェンは生まれてこの方見たことがない。ごろごろ横になり、菓子を食べながら学本の流し読みをしている姿は小さい頃から何度か目撃したが、それを「勉強」と定義するのは、学徒溢れるこの施設に於いて相当に憚られた。
「ふーん……」
 ケーテは、そんな話を聞きながらノートにスラスラと筆を走らせている。
「ところでさ、試験大丈夫? 余裕ない?」
「ん……ああ、今のところは特に問題ない。余裕しゃくしゃく、とはいかんがまぁ、徹夜をする必要は今のところなさそうだ」
「あ、よかった」
 ほっと胸をなでおろすケーテ。イェンはその様子に少し怪訝な表情になる。
「ケーテに私の試験の心配をされる言われはない気がするのだがな」
「なに言ってるの。私は自分の心配をしてるの。だから、イェンが試験ギリギリじゃなくて本当によかったって」
「……つまり?」
 イェンはこの時点で既に半分溜め息混じりだ。
「勉強教えて♪」
 予想通りだった。イェンは少し考えた後。
「それこそ、姉さんに教えを乞うたらどうだ?」
「あ、うーんそれも考えたんだけど」
 ケーテはペンを指先でくるくると回しながら。そして、ぼてっと机の上にペンを落として。どうやら手先が器用な方ではないらしい。
 ケーテは若干頬を赤らめ、咳払いをしてから言葉を紡ぐ。
「ほら、あの人って話聞く限り天才肌みたいじゃない? 私はA=B、B=Cって言われないと分からないけど、リアさんいきなりA=Zって言うタイプの人だし……」
「ああ……まぁ、確かにな」
 かつて自分も似たような感想を抱いた記憶があった。だからこそ、イェンは自分の力で勉強する能力を身につけられたという側面もあるのだが。
「……はぁ」
「だめ、かな?」
 少し俯き、上目遣いになりながらケーテが尋ねる。イェンは目をつぶると、もう一度溜め息を吐いた。
「……いつがいい?」
「……え?」
 ケーテの顔が上がる。驚いた彼女の顔に、声を投げかけるイェン。
「自分自身の確認にもなる。時間を決めて勉強をいっしょにしても構わない」
「ちょ、構わないって……随分偉そうだこと」
 不平を言いながらも、ケーテは嬉しそうだった。ノートの端をちぎり、時間と場所を記してイェンに渡す。
 ちなみにこの後、教室を出た途端イェンはリアにとっ捕まり、その紙片を見られて結局姉に乱入されるという経緯になる。
 リアは、思いのほかよい教師で、イェンにもケーテにもわかりやすく、筋道だてて懇切丁寧に説明してくれた。時々、プロセスを省略することはあったがそこはイェンが補足することで、ケーテに不親切であるということはまったくなく、特設勉強会は滞りなく終了することになった。
 後にケーテ曰く「まぁ、あれはあれで勉強になったし……別によしとする」とのことだった。まぁ、それでも若干不満げであったのも事実ではあるが。


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