時は少し遡る。
「ううーん、名残惜しいけどリアちゃんまたねー……今度はさ、お土産持ってきてあげるから楽しみにしててちょーね?」
「あ、は、はい……お待ちしてます……」
文字通りの密着取材を開始しようとしたロシェルを、イェンは必死の思いで引き剥がすことに成功する。彼女が涙ながらドアの向こうに消え、ばたんと扉が閉まった瞬間、イェンは糸が切れたようにソファに倒れるように座り込んだ。
「……はぁ」
なんというか、もう溜め息しか出てこない。リアもあはは、とちょっとだけ乾いた笑い。ソファに背を預けたまま、イェンは顔だけをリアに向ける。
「リア、大丈夫だったか?」
「あ、はい……元気な方でしたね」
「元気すぎる……ああ、名前は知ったのだったな。彼女はロシェル=フォートリエ。町の仕立て屋の娘らしい。噂話に耳聡くてな……私もここに居を構えたときには、随分と質問責めにあったものだ」
イェンは当時のことを思い出し、苦笑する。
「イェン様の時には、どんな……?」
「まぁ、色々と聞いてきた。お前のときほどぴったりくっつきはしなかったがな」
「はうーん……」
弱弱しく鳴き声をあげるリアに、イェンは苦笑で応える。
「まぁ、悪い人間ではない……悪気がない方がタチが悪いということも往々にあるが……こちらが言いたくないことを無理に追求するタイプの人間ではない」
それは、越してきたときにイェンが質問を受けたときもそうだった。好みのタイプ、趣味、特技、身長体重に魔術師の何たるかまで根掘り葉掘り聞かれたが、出自や家族のことでイェンが口ごもると、それ以来二度とその話題は口にしなかった。
つまりは、彼女はただ単に、会話を楽しみたいというだけらしかった。もっとも、会話を楽しむということが埒外のイェンとは肌が合わないと、イェン当人としては思っているが。
「イェン様?」
「ん……ああ」
少しボーっとしてしまっていたようだ。イェンは一度首を振ると、溜め息。その様子に、リアの顔がむっとなった。
「イェン様、散歩しましょう」
「ん……あまり遅くなるなよ?」
「違います、イェン様も行くんです!」
いつになく強い語調のリアに、少し気圧されるイェン。反射的に腰を上げてしまう。その手を、リアはぱしっと取った。
「溜め息が多いときは、外で気分転換しましょう!」
その溜め息の原因は一体なんなのか。言いかけて、イェンは思いとどまった。
(リアに、心配をかけてしまうとはな)
少しだけ自嘲。
目の前の少女は、本気で自分を心配してくれている。その思いやりを無碍にすることは、イェンにはできなかった。それに、表に分かってしまうほどに疲れているようでは、何をやっても上手くはいくまい。
『ほら、イェン。そんなシケた顔してないで、お姉ちゃんに付き合いなさい』
「……っ!?」
思わず、息を呑んでしまう。
「……イェン様?」
「い、いや……そうだな。少し気分転換をした方がいいようだ」
リアにオーバーラップした少女の姿は、もう見えない。イェンは天を仰ぐと、一度大きく伸びをしてみた。曲がっていた背骨が伸び、肺に空気が入ってくる。
「どこか、あてはあるのか?」
「あ、はい! ちょっと離れたところですけど、綺麗な川があるんですよ」
「ああ、ランピードか……」
嬉しそうに話すリアに、イェンも自然と優しい表情になる。もっとも、ここ数年来そんな表情をしていなかったせいか、顔の筋肉がうまく動作しているとは思えなかったが。
ミルフィスの町の外れを流れるランピード河は、イェンもよく知っている。森の複数の湧水が水源となって、澄んだ、非常に緩やかな流れを持つ、この地方の名所のひとつ。町の料理屋などはここの水しか使わない、というこだわりを見せる店もあるほどだ、と、かつてロシェルが高説を垂れていた記憶がある。
「あははっ、冷たいです」
裸足になったリアが川の中をぱちゃぱちゃと走り回る。イェンはそんなリアを岸の草原から眺めていた。
「転ばないようにな」
多分無駄だとは思うが、とは言わない。それこそ言ったところで無駄だから。
イェンは目を閉じる。さわさわと風が草を撫でる音が耳に心地よい。小川を跳ねるリアの足音も、どこか穏やかな響きを持っていた。
「イェン様、イェン様」
「ん、どうした?」
閉じていた目を開いて、リアがいたところを見る。無人。
「上流まで行ってみませんかー?」
「行く気まんまんで、今更私に尋ねることもなかろう……」
苦笑し、肩をすくませながらイェンは立ち上がり、先行するリアの後姿を追っていく。
やがて河は森の中に入っていく。さんさんと輝く陽光が木々に遮られ、ぽつりぽつりと地面に斑点を描いていた。リアも水からは上がり、林道をスキップしながら進んでいる。
「あまり急ぐんじゃないぞ」
「分かってますよぅっとったったった!? ……ふぅ」
バランスを崩すも、なんとか持ち直すリア。イェンは、はぁ、と深い息。森の空気が肺を満たす。
その森もさらに深くなって、木々を掻き分けてといった形になってくる。その頃には、イェンはリアに後ろを歩かせ、自分が先行していた。
「うむ……ここまで来たら、水源まで辿り着かねば割に合うまい……」
自分の中で、辻褄の合わない理屈ができあがっていた。むきになっていたともいう。
がさっ。
最後の木の枝を脇にのけると、急に視界が開けた。イェンは突然のまぶしさに目を細める。
「きゃっ!?」
妙な声が聞こえた。その声に、イェンはいぶかしんでぬっと顔を覗かせる。
そこでイェンが見たもの。それは……。
「……っ!? い、イェン……さん?」
「フェリ、シ、テ……?」
こちらに背を向け、一糸まとわぬ姿で泉の中に座り込んだ、小さな領主様だった。
「……びっくりしました。まだちょっとどきどきしてます」
いそいそと服を着替え、未だ紅潮する顔を隠しながらフェリシテは言った。イェンも少々顔を合わせづらく、頭を掻きながら「すまなかった」と応じる。
「ん? どきどき?」
リアは少しだけ疑問の声を上げる。フェリシテのしているように、胸に手を当ててみるが、すぐに首を捻ってしまう。 しかし、それも仕方のないことだった。彼女は、心臓というものがない。心臓に代わる機関として、『核』となる赤い宝玉があるが、それは脈動するということはない。
「リア」
イェンは、黙っていろ、と目配せする。リアは「むー」となりながらもそれに従う。
「それで、お二方、本日はどうしたのですか?」
「ん、ああ……ちょっと疲れが溜まっていたのでな。心配したリアに連れ出された」
「まぁ……それは、イェンさんはリアさんに感謝をしなければいけませんね」
くすくす、と笑うフェリシテ。その感謝には、少女の裸身を見たことも含まれるのだろうか、などと益体もないことを考え、慌ててイェンは蘇る記憶を振り払った。
「フェリシテは……ここによく来るのか?」
「ええ、この場所は静かですし、気に入ってましたけど」
「けど……?」
そこでフェリシテは一度言葉を切り、イェンを見遣る。
「また水浴びを覗きにいらっしゃいますか?」
「ぶっ!?」
あまりといえばあまりの物言いに、イェンは思わず吹き出した。そんなイェンの反応に、フェリシテはまたくすくすと笑う。
「ふふ、冗談です……素直な方なのですね」
「……フェリシテは、存外にいたずら好きなのだな」
「あら、私はこういう人間ですよ?」
楽しそうに笑う。イェンは溜め息をつきながら、目の前の少女の認識を改めようと心に決めた。そして、願わくは今ここにいないケーテとだけは意気投合してほしくはない、などと願ったりした。
ちなみにその間、リアはなにをしていたかというと。
「……むぅ」
ちょっと複雑な面持ちで、泉の淵にこしかけ、水を蹴っていた。飛沫が陽光にキラキラと白光を見せる。彼女の素足に、冷たい水が絡みつく。
「なんか……つまらない」
ぱちゃぱちゃと足を動かしながら、フェリシテと話すイェンを眺めていた。なんで、こんなにつまらないのだろう。疑問には答えを。
(でも、なんか聞きたくないなぁ……)
イェンに尋ねるのも、なんとなくいやだった。結局、持て余すしかない疑問は不機嫌に変わり、それが泉の淵でのバタ足に還元される。
「リア」
「え、あ、は、はいっ!」
イェンに名を呼ばれ、リアは慌てて振り向いた。気付くと、至近距離にイェンが立っていた。
「うわぁっ!?」
「な、なんだ?」
思わず飛びのいてしまうリアに、イェンまで驚いた面持ちで二三歩後ずさる。
「まったく。あまり変に動くな。泉に落ちても知らんぞ……」
溜め息と共に言いながら、リアのそばに身をかがめ、泉の水をその手にすくう。
「……ふむ。確かに冷たいな……どうだ。気持ちがいいか?」
「あ、は、はい。こうやって蹴ってると……」
「ば、こらやめっ……」
止めるのが遅かったイェンが悪いのか。水面を覗き込んでいたイェンの顔に、リアの蹴り出した飛沫が襲い掛かった。
「……リア……」
「あ、いや、その……えっと」
気まずい沈黙。先ほどのリアの心中の疑問は、どこかに飛んでいってしまっていた。人差し指同士をツンツンと突き合わせながら、リアはイェンの様子を伺う。
溜め息一つ。イェンは苦笑する。
「次は、こういうことがないようにしてくれ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
謝るリアにイェンは一度だけうなずき、立ち上がった。こちらのやり取りを微笑みながら見ていたフェリシテに肩をすくめる。
「さて、私たちはそろそろ帰ろうと思うが」
「あ……はい、私もそろそろ館に戻ろうと思います」
言って、フェリシテは軽く礼。いつぞやのケーテと似たような仕草だが、風格がまったく違う。などと言ったら、ケーテにまた何を言われるかわからない。
イェンは再びリアを顧みると、顎で促しながら言った。
「さ、帰るぞリア。もうそろそろいい時間だ……今日は、料理をそろそろ教えてやらないとな」
「あ、は、はいっ」
慌てて立ち上がると、リアは先に歩き出してしまったイェンを追いかけた。
二人を見送って、フェリシテは振った手を少しだけ握る。
「ふふ、本当に仲がいい二人……」
もう視界にも見えない姿を、目を閉じて思う。
フェリシテは、夢想する。彼ならば、自分の味方になってくれるだろうか。私のやり方、私の方法に賛同し、イエスと言ってくれるだろうか。
町の人間は、彼女に対して冷たいか。そんなことはない。町の人間たちは、本当にフェリシテに優しい。彼女のことを思いやり、そして彼女のためにさまざまな事をしてくれている。
だが、それでは彼女は満たされない。フェリシテは、庇護されるをよしとはしない。彼女は、己の身を守ってもらっていることに感謝を欠かしたことはない、それでも。彼女は領主として、町の人間たちに報いたいと思っている。
領主として、彼女はどうすればいいのか。彼女の方法は、正しいのだろうか。
「分からない……けれど、やるしかありませんよね」
その言葉は、誰に投げかけられたものだったのか。フェリシテはもう一度目を閉じ、深く息を吸う。正しいと、思いたい。
(大丈夫、私は……フェリシテ=ラ=アル=シャルロワ)
彼女は心中の声に少し頷くと、館に向かって歩を進めだした。
西日差す部屋の椅子に深く腰掛けて、書類に目を通す女。
「……ずいぶんとあっさり進んでしまうこと」
ぱさりと、机の上に書類を投げ出しながら、ケーテは苦笑する。窓の外の紅い空を見返り、その向こうにいるであろう人物のことを思う。
「……あなたは、逃げたのよ」
ケーテは、窓から目をそらし、呟くように言った。呼ばれた相手、イェンはこの部屋にはいない。ただ、籠の中の鳥が一度大きく羽ばたいただけだった。
「あなたのことじゃないわよ」
あはは、と笑いながら立ち上がり、鳥の餌を手に取るケーテ。せわしなく止まり木を左右に移動しながら餌を待つ鳥の名はオーリック。
「でも……」
小鳥の頭に降り注ぐ餌。左右に首を振るオーリック(鳥)は、いつ見ても胸がすくというか、見ていて可愛いと思う。
「……こほん」
思考がどうでもいい方に流れそうになったのを、ケーテは咳払いで修正する。
「分かっているわ、間違っているって」
苦笑と共に鳥に話しかける。それは、餌のやり方のことだろうか。それとも、別の何かであろうか。
ただ、いずれにせよケーテの中でそれは確信に近い。
(それでもやらなければいけない、なんとも業の深いことね……)
彼の真似をして一度溜め息をつくと、ケーテは窓に歩み寄り、丘の上が見えるその風景を、カーテンで遮った。
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