第三章 彼女たちの方法


 イェンの書斎で、ケーテとイェンは話すでもなく、かといって黙るでもなかった。
 ゆっくりと時が流れるのを感じながら、イェンは手元の本を読むでもなく眺め、ケーテもその様子を見下ろすだけ。
「ん、もうこんな時間ね」
 言いながらケーテは太陽のほうを見返る。既に真上近くまで上っていた太陽に目を細めて、再びイェンに顔を戻す。
「随分と長居だな」
「暇だからね」
 ケーテはしれっと言ってのける。イェンは一度だけため息をつくと、また本に目を戻した。ケーテは身をかがめ、書斎の机に肘を突きながら。
「そろそろ食事時ね……つくろっか?」
「……作れるのか?」
「作れないけど」
 ケーテの言葉に、イェンは頭を抱えた。この女は何がしたいのか。本を閉じて、立ち上がる。
「ふぅ……仕方ない、飯くらいなら作ってやるから、食べたら早々に帰れ」
「あら冷たい」
「今すぐ帰るか?」
「ご馳走になりますわ」
 ケーテは服の裾をつまむと、少し腰を落とした。仕草は淑女のそれだが、表情はいつものケーテだった。その様子にイェンはただ眉間を押さえ、ため息を吐くばかりだ。
 ふるふると頭を振ると、イェンは食事を作るために階下に向かい、それにケーテも続いていった。

「魔術師やめて、シェフになってもやっていけるわね」
「世辞が見え見えだ」
 イェンはため息を吐きながら、ケーテを眺める。ケーテは「お世辞じゃないわよ」と笑いながら言うと、ドアノブに手をかける。
「また来るわ」
「もう来るな」
「言っても無駄だって分かってるでしょ?」
 ケーテはあくまで笑いながら。イェンもそれに苦笑で返す。ドアノブを回し、ぐっと開けた。

 べこっ。

「みぎゃっ!?」
 ドアが何かに当たり、次いでなにか不思議な声が聞こえた。
「り、リア!?」
「ちょ、ご、ごめんなさい?」
 イェンが慌ててドアの外を見る。それに追従してケーテも覗き込んだ。そこには確かに。
「いたたたたた……」
 荷物を地面に取り落とし、長い金髪を下に垂らしながら、赤くなった額を押さえうずくまる少女の姿があった。
「……あ、ケーテさん、いらっしゃってたんですかー……たた……」
 涙目になりながら、気丈に挨拶するリア。ケーテとイェンに助け起こされ、リアはぱんぱんと膝についた汚れを払う。
「だ、大丈夫?」
「ええ、平気です。ケーテさんは、もうお帰りですか?」
 未だ真っ赤な額のまま、リアはにっこりと尋ねた。ケーテも、それでようやくいつものペースを取り戻す。
「ええ、イェンが「早く帰れー」って追い出してくるから、仕方なくね」
 いたずらっぽく笑いながら、ケーテの言。
「……イェン様?」
「誤解をするな。というか真に受けるな……」
 非難がましい目のリアに、イェンは頭を抱えながら弁明する。そんな二人の様子にケーテはおかしそうに笑うと。
「ふふ、冗談冗談。さすがに一日中診療所を空けておくわけにもね。もともとすぐ帰るつもりだったから……それじゃあ、イェン、リアちゃん」
「あ、さようならです」
 リアに頭を下げられながら、ケーテはイェン邸に背を向けた。

 イェン邸が見えなくなった林道で、ケーテの表情が険しくなった。
「……こんな明るいうちからコンタクトを取れといった覚えはないわ」
「すみません、ですが報告をしておきたいと」
 木の陰に人間が一人。お互い顔は見ない。
「言いなさい」
「……もう、既に捕らえる手はずは整っているようです」
「……そう」
 男の声に、ケーテは一度ため息を吐き、そして木の向こうの人影に話しかける。
「ご苦労様。引き続き、ターゲットの家を張っていなさい」
「諒解しました」
 短く言って、男はさっと姿を消した。ケーテは目を閉じ、ゆっくりと丘の向こうを見遣った。そこにいるであろう人物を思い描く。
「イェン……あなたは、逃げられないわよ……?」
 人の気配のしない林道の中。ケーテの言葉は誰に届くこともなく吸い込まれていった。

 買った荷物を保管庫に仕舞い戻ってきたリアに、イェンは話しかける。
「随分と遅かったが、何かあったのか」
「あ、その……すみません、イェン様」
 今更になって自分が寄り道をしたという事実に気付いたのか、リアはちょっと縮こまって答えた。しかし、そんなリアにイェンは苦笑する。
「いや、別に怒っているわけじゃない……ただ、少し心配はした」
「あの、フェリシテさんのところにちょっと……」
「フェリシテ……領主の?」
 イェンは少し眉を跳ね上げる。リアはその場のノリで行動する娘であるとは思っていたが、今回の寄り道はあくまで異質。話し込んでいて遅くなったのとはワケが違う。
「何をしに行っていたんだ?」
「あ、えっと。町でですね……」
 そのまま、今日あったことをイェンに伝える。イェンはうなずきながら、驚きを隠せないでいた。今までは、リアは何も考えずにただ行動していた。
(いや……今回も何も考えずに行動はしているか……)
 それでも、自分の思いを根拠にして行動するという結果は、紛れもない彼女の成長であったのだろう。彼女自身は、疑問に対して答えを得られてはいないようだったが、イェンが言っても仕方がない、答えの出ない、個人個人で答えが違う問題だ。
「ふむ……」
 イェンは頭を掻いた。
「……イェン様?」
 イェンの顔を覗き込むリア。その目は、「怒られるのではないか」という思いが見て取れた。
(さて……どうしたものか……)
 成長しているのは間違いない。しかし、無許可で寄り道をし、イェンに心配をかけたのも事実だった。イェンは溜め息を吐く。と、そのとき窓の外にイェンはピコピコと踊る緑色の物体を見つけた。
「…………」
「イェン様?」
 イェンは一度溜め息を吐いた。
(……さて、どうしたものか……)

 その不思議な緑の物体の本体を捕まえるのに、それほど苦労はなかった。
「やぁやぁどもどもー……」
「不審人物、確保……だな」
 その正体は、少女だった。首根っこをつかまれ、決まり悪そうな笑顔を浮かべている。服装はあくまでラフ、身長はリアより若干高いであろうか。
「あはは、お久しぶりー……」
「そうだな」
 じろりと睨む。少女は首をすくめながらイェンの手を外す。逃げる気はないと手をパタパタ振ってアピールすると、言葉を紡ぎだす少女。
「実はね、丘の上の魔術師さんに恋人ができたって」
「ちょっと待て」
 イェンは思わず言葉に割り込んでしまう。しかし、少女は聞いていないのかそれとも聞く気がないのか、話を続ける。
「それでねー、自称情報通の私としましては、取材しないわけにはいか……」
 そこまで言って、少女の口が突然止まる。
「ん?」
「か……」
 イェンは不審がって少女の目線の先を見た。そこには、きょとんとこちらを見ているリア。
「ああ、リア。見ていなくていいぞ」
「あ、えっと……」
「か・わ・いいいいいいっ!?」
 ばびゅんと。音すら越える速度で少女はリアの目前まで移動した。もはや人知を超えている速度に、ただただイェンとリアは呆気に取られるだけだ。
「わー、可愛いっ、リアちゃんって言うんだ。歳いくつ? 魔術師さんの親戚の人? ああ、私? 私はロシェル=フォートリエ。みんなはロッシって呼ぶからこれからはリアちゃんもそう呼んでいいよ。っていうかやーん、やっぱり可愛いー。魔術師さん、こんな可愛い子を独り占めにするなんてそれはもう既に社会悪よ? あー肌もつるつるだー、髪も綺麗だしうーんリアちゃんいいねー」
「い、イェン様ぁ〜……」
 頬ずりをされ、髪を触られ、リアは半泣きになりながらイェンに助けを求める。その声で、イェンもようやく正気に帰った。
「おい……おいロシェル!」
「ん、なにー? もー、昨日は留守してたみたいだしあー今日きてよかった……」
「ん、昨日? 昨日来たのか?」
 イェンは尋ねる。昨日は来客はなかった……いや、フェリシテが来客だったかもしれないが、それ以外にはなかったように記憶している。……が、言われてみればたしかにかなりの時間留守にしていたような気もする。
「一昨日も、来ていたのか?」
「へ? 一昨日? 私がこのネタを聞いたのは昨日だから、一昨日は来てないよ?」
 リアを抱きしめながら、ロシェルはきょとんとした顔で答えた。リアはもはや抵抗する気もないのか、ロシェルの為すがままだ。
「一昨日、っていうと……ああ、フェリシテさんが……」
「そうだな。私は外にいたが」
 リアの言葉で、一昨日のことを回想する。確か、外にいたときに視線を感じたような気がした。
(ふむ……やはり、気のせいだったんだろうか?)
 イェンは考える。ロシェルが嘘をついているとも思えなかった。彼女がここで嘘をついたところで、何のメリットがあるだろう。それに、あの時感じた眼光はもっと鋭かった気もした。
「ところで魔術師さん」
「ん? なんだ?」
「この子とは、どこまで?」
 ロシェルの真剣な問いに、イェンは張り詰めていた空気をすべて開放してただただ脱力するばかりだった。

「ふぅ……」
 羽ペンを机に横たえ、フェリシテは一度大きく伸びをした。下ろした髪が彼女の頭の動きに合わせて僅かに左右に揺れる。
「当主様」
 傍に控えていたクリストファが彼女の前に紅茶の入ったカップを置いた。
「ふふ、ありがとうクリストファ」
「いえ」
 目礼で下がるクリストファを尻目に、フェリシテはカップに口をつける。執務に疲れた頭に、紅茶の淡い苦味が染み渡っていく。
「……王都への報告書、ですか」
 自分が今まで書いていたものを手に取り上げ、フェリシテはひらひらと振った。インクを乾かすという目的もあったが、それ以上に無目的にこれを取り上げてみたかった。
 領主である以上、欠かすことのできない義務のひとつ。幸いにして、父の執務を眺めることが多かったフェリシテはそのやり方を知っていたし、古くからシャルロワ家に仕える執事クリストファは、そんな領主のバックアップの仕方を熟知していた。
 父母に先立たれ、弱冠10歳にして領主という地位に立たされて以来、ずっとこなし続けてきたものだった。去年と何が変わるわけでもない、先月やったことと形式が変わることもない、ずっと繰り返してきた日常のひとつ。
 だから、フェリシテとしても、特にこの一枚の内容に思い入れがあるわけでもない。報告書の内容をもう一度目でなぞりながら、考えるのは別のことだった。
 先刻言われたこと。自分より頭二つは高いであろう無垢な少女に話されたこと。
「歳若いからダメなんてことはない……か」
 立ち上がり、髪を結わえた。結わえると子供っぽくなることは自分でも承知していたが、彼女はこの髪型に愛着を抱いていた。
「クリストファ。ちょっと出かけてきます、留守を頼みましたよ」
「かしこまりました……どうぞ」
 ケープを持ちながら、クリストファは頭を下げる。それを肩にまとって、フェリシテは一度だけくるりと回った。
「当主様、お気をつけて。お倒れになるなら、また魔術師殿のところになさいませ」
「……もう」
 ちょっとむくれてみるフェリシテ。クリストファは目を細めて笑うと、
「冗談でございます」
 しれっと言い放った。ケープに顔を半分隠しているフェリシテもくすくすと笑う。
「いってらっしゃいませ、あまり遅くなられないよう」
「ええ、了解しました。ではね、クリストファ」
 言って、フェリシテは館の外へと歩を進めた。
 目当ての場所に行く道すがら、フェリシテは考える。
 リアのこと。彼女に感じたほのかな違和感と、彼女のまっすぐなまでの物言い。彼女は無知ゆえか、「歳若い=実力不足」という常識を真っ向から己の感性だけで否定していた。そこに、理屈はない。ただリアがそう思ったから、彼女の中ではそれが納得し得ないものとなった。世間一般の風評と、彼女の感性と。どちらが正しいという問題に答えはない。
 ただ、今のフェリシテの方法で、彼女の中に生じているギャップを埋めることはできない、そんな確信もあった。
(ままならないもの……です)
 ふふ、と苦笑するうちに、フェリシテは目的の場所に着いた。
 そこは、森の中の小さな泉。鬱蒼と茂る木々の中、そこだけぽっかりと天窓が開いたように空が仰げ、流れる風が僅かに湿り気を帯びて肌に涼しい。緑と、空の青を映した湖面はどこまでも鏡のように澄んでいた。
 フェリシテのお気に入りの場所。そこの空気を一度大きく吸い込んで、肺に満たす。草と木と水の香りが体に入ってくる。
 彼女は一度だけ、周りをきょろきょろと見回すと、ケープを脱ぎ、地面に置いた。次いで、上着のボタンを外していく。徐々に露になる彼女の白い肌。最後の一つのボタンを外すと、上着はすとんと地に落ちた。靴を脱ぎ、それに遅れること少し、両の靴下も足から抜き去る。細く、余計な肉のないすらっとした素足が、太陽の光に白い。
 スカートに手を伸ばしたところで、彼女はいったん手を止める。誰も見ていないとはいえ、少し恥らってしまう。しかし、やがてはスカートのホックを外し、脱いだそれを脇にたたんで置く。下着までも脱ぎ去ると、フェリシテはゆっくりと泉に足を浸した。
 ここで水浴びをするのが、フェリシテは好きだった。手に冷たい水をすくい、肩にかける。裸足に、泉の底の石たちがくすぐったい。煌々と照らす太陽の中、冷たい水がフェリシテの体を冷やしていく。
 彼女は水浴びに夢中で、気づかなかった。普通であれば、もしかしたら気づいたかもしれないのに。

 がさっ!

「きゃっ!?」
 大きな音に、反射的にフェリシテは泉の中体を隠すようにして座り込んだ。そして、恐る恐る振り返った先にあったものに、彼女はさらに驚くことになった。


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