「ふぅ……」
椅子に深く腰掛けながら、イェンは頭上を仰いだ。ぎっぎっと軽く背をきしませ、額の髪を払う。
「昨日、一昨日と失敗しているからな……」
今ごろ街についているであろうリアの姿を想像しながら、イェンはつぶやいた。
今回は、きちんとやることのメモを持たせてはいる。行きがけに一度、確認をした。しかし……
「何、やっぱりあの子のことは心配?」
ことり、と、目の前のテーブルにグラスが置かれた。イェンは上方を見上げたまま、溜息をついた。
「それも心配だがな……」
額を片手で押さえ、目を閉じながら溜息混じりの言葉。
「それよりも、この館の施錠事情の方が心配になってきたところだ」
「ああ、それなら私が鍵かけてきたから心配ないわよ?」
にこにこと笑いながら机に持たれるその人物に、イェンはとりあえず三白眼を送ってみる。
「ケーテ、仕事はどうした……?」
「オーリックに任せてきたわ」
しれっと言ってのける。イェンは頭を抱えた。差し当たり、あの鳥の改名だけでもしてほしいとは思うものの、結果は目に見えている。言われて改名するような殊勝な性格をしているのならば、最初からそんな名前は付けないだろう。
「でも、ま。実際ヒマなのよ。患者の数より医院の人間の数の方が多いんだもの」
「む……誰か勤めていたのか、お前以外で」
「うんにゃ」
つまり、ケーテ一人が働いていて、患者の数より医院の人間の……。
「……それは、絶望的に暇だな」
それならば、鳥に任せていても問題ないのかもしれない、などということすら考えてしまう。
「医者が忙しいっていうのも考え物だけどね」
ふふ、とケーテは苦笑い。イェンはそんなケーテに肩をすくめると、テーブルの上のグラスを手に取った。
「リアは擦り傷ならしょっちゅうだが、な……と」
グラスの中の水を口に含み、飲み下す。少しだけ甘かった。
「む……これは、蜂蜜……か?」
「ご明察。なんか、いろいろあって疲れてるみたいだったからね。そういう時はこういう飲み物がいいのよ」
「……罪滅ぼしか?」
「なんの罪かしら?」
ジト目のイェンに、ケーテはいつものにっとした笑顔を向ける。明らかに確信犯だ。
「しかし……いろいろあると言うのは、何か知っている口ぶりだったな」
イェンは、少しだけ鋭くした眼光でケーテを見た。しかし、ケーテはそんなイェンをなだめるように笑う。
「ん、ただの勘だけどね。あなたは昔から溜め込む人だから。学院にいたときから変わってない」
「ぐ……むぅ」
言葉に詰まる。イェンはごまかすように、水を飲み干した。
一方、リアはというと、メモ書きと奮闘しながら着実に依頼をこなしていた。
「えっと……この卵というのはどこにいけば売っているのでしょう?」
「ああ、卵かい? 卵なら……そうねぇ、この先の角を右に曲がって三番目のバルドーさんとこの店だね」
「この先の角を右ですね、ありがとうございます!」
ぺこり、と頭を下げる。肉屋のおばちゃんは「今時珍しい、いい子だねぇ」と目を細めながら呟いた。
「ミュライユさーん、回覧でーす」
「あいよ、そのへんにおいといとくれ」
やってきた回覧に、おばちゃんは手をパタパタと振りながら顎で促す。
「……かいらん、ですか?」
「おや、お嬢ちゃん。回覧って知らないかい? ……ああ、そうか。岡の上の魔術師さんとこにいるんだもんねぇ、そりゃ知らないかねぇ」
「ええ、初めて見ます……」
しげしげと、紙をクリップで固定したボードを眺めるリア。特に重要な秘匿情報が書かれているわけでもないので、おばちゃんも止めることなどするはずもない。
「これは、なんなんですか?」
「これはねぇ、このあたりの商会での新しい決まりごととかね、近々ある催し物なんかが書いてあるんだよ」
「はぁ……すごいですねぇ」
リアは目を丸くしながら回覧板を見つめる。初めて見るものに、リアの好奇心は面白いくらいに注がれていた。
「ほら、領主さんがまだまだ歳若いだろ? あたしんとこの娘より若いんだから、そんな子に何か期待したってしょうがないじゃないか」
「……はい?」
「だからね、街は街で、自分たちのことは自分たちで世話することにしてるのさ。そうした方が、あの領主様にも負担にならないだろう? 領主様には街のことまでやらせなくても、自分たちでできるってね」
おばちゃんの言葉に、リアはちょっと不思議な感じを覚える。領主といえば、過日イェンの館に来たあの少女のことで間違いはないだろう。
あの少女は、頼りなかっただろうか。リアは記憶をたどる。
「領主さんは、頼りないです?」
「んー、まぁ、若いからねぇ、頼りないとかそういうことを考えたことはないけどねぇ」
おばちゃんは、ちょっとだけ考えながら言う。リアの眉根が、少しずつ寄っていく。怒りではない、ただ、得心が行かない。
「あ、えっと、じゃあ私そろそろ行きます……」
「ああ、そうかい。角を右に曲がって三番目だよ」
身振り手振りで道順を示すおばちゃんにもう一度ぺこりとお辞儀をすると、リアは早足で歩き出した。と言っても、向かった先はバルドーさんとこではない。
疑問には、答えを。分からないことは、人に聞く。リアがこの世に生を受けてからずっとやってきたこと。
(うーん……)
二つの、相反する姿。自分と街の人との、フェリシテに対する印象のギャップ。
リアは、大きな扉の前に立った。ノッカーに手を伸ばし、一瞬躊躇った後、
こん、こん。
扉を叩く。しばしの沈黙、そしてドアが開かれる。
「どなた様ですかな?」
扉から顔をのぞかせたのは、老年の男性。髪は総白髪で、顔に刻まれたしわの一つ一つも深い。体躯はそこまで大きくもないが、年月が積み重ねてきた風格が体中から滲んでいた。
長い眉に隠れて見えにくいが、澄んだ碧眼でじっとリアの顔を見つめる。
「あ、あの、ここは、フェリシテさんのお宅、ですか?」
リアはその風格に少し気圧されながら、尋ねる。その言葉に、老人の眉がピクリと動いた。
「ふむ……確かにここは、フェリシテ様を当主とする、シャルロワ家の屋敷に他なりませぬな」
「えっと、フェリシテさんは、いらっしゃいますか? あの、私、リアって言うんですけど」
「リア……様ですか。残念ですが、当主様はただいま外出をしておりますな」
老人は、少し申し訳なさそうに言う。
「少しで帰ってくるとは仰っておりましたからな。宜しければ、中にお入りになってお待ちくだされ」
そう言って、扉を少し大きく開ける。
「あ、いえ……あの、ただ寄っただけなので、その」
あたふたと辞去しようとするリアに、老人は少しいたずらっぽく笑った。
「いえ、本当にもう少しでお帰りになります。そうですな……あと1分程度で」
「え?」
リアが聞き尋ねようとしたとき。
「はぁ、はぁ……ひょっとして、リアさん?」
「ぴっ!?」
後ろから、声をかけられた。リアは思わず身を跳ね上げる。彼女の手の中で、買い物の荷物がぽんと揺れた。
「ふふ、ごめんなさい……はぁ……驚かせてしまった、みたいですね……はぁ……はぁ、リアさんが、見えて……思わず、走ってきてしまいました……ふふ」
ちょっと息が荒いフェリシテ。額もうっすらと汗ばんでいる。
「当主様、おかえりなさいませ。さ、これを」
いつの間に持ってきたのか、グラスを手渡しながら老人がフェリシテを迎える。
「ありがとう、クリストファ」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
はらはらとリアはフェリシテを気遣う。フェリシテは、グラスの中の液体を飲み干すと、ふぅと一息ついてから、リアににっこりと微笑んだ。
「それで、リアさん。今日は、どうしたんです?」
「あ、えっと、あのですね」
「お嬢様方」
リアの言葉を、老人――クリストファが遮った。リアとフェリシテは、ちょっと驚いて彼の方を見る。
「日差しも強うございます。はしゃぐのも構いませぬが、お部屋でにいたしませんかな?」
クリストファの言葉に、二人は少し赤面した。
フェリシテに促されるまま、リアはちょこんと客間の椅子に腰掛けた。きょろきょろと辺りを見回す。イェンの館とは家具の配置も何も違う、この建物のすべてが物珍しかった。壷がおいてあったり、絵が飾ってあったり、花が活けてあったりと、イェンの館に比べて華やかであるとリアは感じる。しかし、いわゆる成金趣味的なものでもなく、その光景はリアには心地よいものと感じられたようだった。
「ふふ、珍しいですか?」
フェリシテもリアの対面の椅子に腰掛けながら、好奇心丸出しのリアに微笑みかける。普通はじろじろと家の中を見回されて心地のよかろうはずもないものだが、リアの場合は明らかに、悪意ではなく純粋な意味での好奇心であることが周りからも分かるからだろう。
「そですね、やっぱりイェン様の館とは全然違いますねー」
テーブルの淵の紋様をなぞりながらリアは頷いた。木に掘られた紋様が、指を通して伝わってくる感覚を楽しむ。イェンが過度の装飾というものを好まないため、彼の家にはこんな机はなかった。
「そういえば、イェンさんはお元気ですか?」
「いつも通りですねー。強いて言えばちょっと溜め息が多いですけど」
「そうですか……」
少し心配そうに顔をしかめながら、フェリシテはテーブルの上のボウルからクッキーを一枚手に取り、かじる。どうやらいつの間にかクリストファが用意してきたらしい紅茶セットを前に、リアも倣ってクッキーを口に含む。
「それで、私にご用ですか?」
「あ、そうでした。忘れるところだった……」
ぱん、と手を合わせる。別にご馳走様ではない。リアは、つい先刻街で聞いたフェリシテの話を持ち出す。まったく単純に彼女はどちらの方が合っているのか、それが知りたかった。
「……ふふ、そうですか」
話を聞き終わるとフェリシテはちょっと苦笑しながら、頷きで少し乱れた自らの髪をさっと梳いた。
「そう、ですね……やはり、私がまだ歳若いと言うのは事実でしょうし。今はまだ、お父様……先代の領主の七光り、と思われているのでしょうね」
「でも、フェリシテさんが……歳が若いっていうことがそんなにだめとは思えないんです」
「ええ。私もそう思われたままというのは困ります。いつかは領主として、フェリシテ=ラ=アル=シャルロワとしてやれなくてはいけない」
フェリシテは、一旦静かに目を閉じた。そうして、しばらくの後、リアに目を向けて微笑んだ。
「でも、正直なところ、私もちょっと分からないんです。市井に出て、街の空気を感じて……。今、この街に、権力を持つ大きな統治者が必要なのか、分からない。私がいる必要は、ないのではないか」
カップを指にかけ、紅茶を一口だけ口に運ぶ。息をついてから、フェリシテはまた言葉を接いだ。
「そんなことを考えていたら、少しいたたまれなくて。街からも、この館からも離れた、あなたたちのお屋敷のそばまで来て……倒れてしまったんですね、私が気を失ってそちらに運び込まれた日は」
「でも、そんなに倒れるくらい、一生懸命考えてるってことですよね!」
「ふふ、そうならば、いいんですけど……ね」
微笑み、フェリシテは目を閉じる。微かな吐息が小さな口から漏れ、その吐息を飲み込むように紅茶を喉に流し込んだ。
「心配してくれたのですね。ありがとう、リアさん」
「あ、えっと……」
頭を下げられ、リアはちょっと驚いた顔を見せる。そんなリアの様子に、フェリシテは優しげな笑顔を向けた。
「リアさん、買い物の途中だったのではありませんか?」
「へっ? あ、えと……あっ、そうでした!」
リアは慌てて立ち上がる。いつからそこにいたのか、いつの間にそこに来たのか、クリストファがリアの上着を差し出した。それを受け取ると、リアは一度フェリシテに向き直り、
「あの、えっと、お茶ごちそうさまでした!」
それだけ言って、彼女はあわただしく出て行った。その後姿を見送りながら、フェリシテはクリストファに話しかける。
「素直な感情……ああやってオープンになれたら、素晴らしいんでしょうね」
クリストファは黙ったまま、ただ肩をすくめた。フェリシテも同じように肩をすくめると、執務をするべく立ち上がるのだった。
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