第二章 命の代価



「それじゃあ、行ってきます!」
「ああ……」
 意気込むリアに、イェンは少々やる気なげに手を振った。場所は、ミルフィスの街。時は昼過ぎ。通りに散見する人の数は、夕刻時のそれに比べればはるかに穏やかだ。
「買い物、頑張りますね!」
「いいから、さっさと行け」
 肩を怒らせ、鼻息荒く通りへと歩き出すリアの後姿に、イェンはお決まりの溜め息。彼女の意気込んだ姿に、安堵など覚えられるはずもない。いや、むしろ不安を誘発する態度だ。
 空を見上げる。抜けるような青空だった。今まで、こんな風に天を仰ぐことがあっただろうか。イェンの記憶の中の空は、いつもあの、学院を飛び出した曇天だった。その空とは比べ物にならない蒼。自分の中で、何かが変わったのだろうか。
 視界の端に、金髪の少女を捉える。おばちゃんと談笑していた。
(……まぁ、予想はしていたが、な)
 こうも初っ端で失敗してくれると、怒る気も失せた。

 とんとん。

「む……?」
 後ろから肩をつつかれた。イェンはぱっと後ろを振り向く。
 ……無人だった。
「……変わらないな、ケーテ」
 イェンは、溜め息を吐きながらもう片方の手に伸ばされていた細腕を掴む。果たして、彼の言どおり、ケーテ=ハイニヒェンがそこにいた。
「あーあ、失敗失敗」
 悪戯っぽく笑って、ケーテは彼の前まで歩み寄る。
「何の用だ?」
「何の用だ、はないでしょ。人の職場の目の前で」
「……む?」
 イェンは、自らが背を預けていた建物を顧みる。確かに、そこにはハイニヒェンの刻印が為されていた。
「強いて用はと尋ねられれば、営業妨害者への注意勧告としか」
 若干意地悪そうな顔で微笑むケーテ。
「それは、済まなかったな。すぐに立ち退こう」
 すぐさま踵を返そうとするイェンの腕を、ケーテはぱっと掴む。
「冗談冗談。あなただったから、声をかけておこうと思ってね」
「それは迷惑な話だな」
 素気無いイェン。とはいえ、彼女の言葉に応えている以上、その場をすぐに立ち去るという意思は失せたのだろう。
 ケーテは、ぱっと彼から手を離した。そして、にっこり微笑んで言った。
「……でもホント、昨日の今日で来るなんてね」
「別に、ここが目的で来たわけではない」
 イェンは、肩をすくめる。つぶさに説明するつもりなど、毛頭持ち合わせていない。
「ま、どうせあの子待ちなら中入ってってよ。どうせ暇だし、暇だろうし」
 どうせ、ケーテの洞察力の前には、隠しても無駄なのだから。

 半ば強引に、というか無抵抗で連れ込まれた医院の中は、すこし薬品の香りがした。
「適当に掛けてちょうだい」
 ケーテの言葉に従って、イェンは診療用の椅子に腰掛け、辺りを見回した。
「昨日付けで赴任して来たにしては整理されているな……」
「物が少ないからねー」
 こちらに背を向けて、なにがしかの作業をしながらケーテが応える。
 さらに診療所の中を見渡すイェンの眼に、小さなケージが映った。窓辺につるされているその中に、小鳥が一羽鎮座していた。
「ほう、鳥を飼っているのか」
「そ、閑古鳥」
「……相変わらずのいい趣味だ」
「そりゃどうも」
 イェンの言葉ににっこりと返しながら、ケーテはイェンの前のテーブルにカップを二つ置いた。なみなみと注がれた紅茶に、シナモンスティックが無造作に漬かっていた。何を隠そう、イェンが学院時代に好んだものだ。
 そのまま、ケーテは鳥の住むケージに歩み寄った。
「ほーら、オーリック。エサだぞー」
 格子の隙間から、菓子を砕いたものを小鳥に食べさせるケーテ。
「……それが、名か?」
「いい名前でしょ?」
「……相変わらずのいい性格だ」
「そりゃどうも」
 ぱっぱと菓子を小鳥に振りかけながら、ケーテはもう一度にっこりと笑う。粉末を頭から浴び、小鳥はぱたぱたと羽ばたく。どう見ても嫌がっていた。
「今日は、あの子は何してるの?」
「ああ、買い物の実地訓練だ」
「なるほどねー。でもなんかあの子、お金払わずに物貰ってきそうよね」
「……それは、昨日やった」
 紅茶の載った簡易テーブルに差し向かいで、他愛ない会話をする。イェンの口も、いつもより少し軽くなっていた。ケーテという、昔の空気を帯びた人間と空間を共にして、自身もその頃の心地に立ち返っているせいかもしれない。
 イェンは、昔の匂いのする紅茶を、くっと呷った。懐かしい味がした。

 一方。

「えっと、林檎というのはどれでしょう?」
「おいおいお嬢さん、冗談いっちゃいけねぇやな。ここにいるのは海の幸ばかり、海にゃ林檎は泳いじゃいねえやな」
 かっかと威勢よく笑う魚屋の主人に、リアは「まぁ、そうなんですかー」と驚いたように手を合わせた。
「こちとらぁ、魚ばかり売り続けて三十年。この誇りにかけて言えるが、魚河岸に林檎が並んだってぇ話はついぞ聞いたことがねぇや」
「はー、三十年ですかー。長いですねー」
「おうともよ。俺ぁ産まれたときから魚屋の倅でよ……」

 ぱっかーん!

「アンタ! バカなこと言ってないで、さっさと八百屋を教えておやり!」
「おーいてて……うちのは手が早くていけねぇや。嬢ちゃんも、うちのカカァみたいなのにだけはなっちゃいけねぇよ」
「け、ケンカはいけませんよ?」
 おろおろとするリアに、魚屋のおばちゃんはふんと鼻息一つ。
「うちの宿六にゃあこのくらいがいい薬なのさ。いいかいお嬢ちゃん、八百屋はね、ここから……」
 リアは、ふむふむと話を聞いていた。ちなみに、彼女はまだ手ぶらである。

 ハイニヒェン医院での、簡素なお茶会は続く。
 旅先でのこと、このミルフィスでのこと。ケーテの赴任先、イェンの出奔先。話題は尽きない。しかし、ケーテが意識的に避けている話題があることに、イェンも気付いている。それは、彼女なりの配慮なのかもしれないが、自分と彼女が対話をするのに、それを外すことはイェンには不自然と思えた。
「ケーテは、学院で応用魔術学を学んでいたのだったな。医学に鞍替えをしたのか?」
 あくまで紅茶に浮かぶ波紋を眺めながら、イェンは言った。その言葉に、ケーテは少し驚いたような顔をしてイェンを見る。そして、しばらく眼を瞑るが、僅かばかりの遅滞の後、何事もなかったかのように応える。
「うんにゃ、最後まで応用魔術学よ。魔術を応用しての医療行為ってことで」
「そういえば、そんないい加減な学部だったな……」
 魔術と大義名分さえつけば、なにをしても許されるような学部であったとイェンは振り返る。自由な校風と野放図は紙一重だと言われるが、だとするならばあの学校は明らかにそのボーダーを三歩ほど踏み越えていた。
「研究もほとんど各自任せだったしね」
「魔術バーベキューの研究なんてものがまかり通る時点で、あの学院の内容たるや推して知るべし、だな」
 ちなみに、魔術バーベキューの研究(つまるところが単なる焼肉パーティーだ)の主犯は、誰あろうイェンの目の前で紅茶をシナモンスティックでかき回すこの女だった。
「懐かしいね」
「少しは後ろめたさもないのか、この女は……」
「ん?」
「いや……なんでもない」
 言って、イェンは紅茶を一口。懐かしい微香が鼻をくすぐるたび、昔のことが頭を過ぎっていく。
「……なぁ、ケーテ。私が出て行った後、大変だったか?」
「ん……そりゃ大変だったわよ。彼氏に逃げられた女ほど惨めなものはないのよ?」
 にこにこと笑うケーテの、その少し非難がましい視線をなんとか紅茶でやり過ごす。ケーテも、そんなイェンの様子に、ふっと小さな溜め息を吐いてから、改めて応えた。
「禁忌指定の研究を許していたってだけでも大変なのに、それを勝手に外に持ち出した人間がいるとなれば……ね。しかも、持ち出したのは……夭折した禁忌研究者の身内。当時は草の根掻き分けてでも探し出そうって方針だったわ」
「それは……当然か。姉思いで知られていた男だ、その研究施設に復讐を目論むやもしれん。世に発表するだけで、相当な痛手になることは、研究に携わっていた人間なら嫌と言うほどわかっているはずだからな。……その男は、よく追っ手から逃げおおせられたものだ」
 自嘲気味に言いながら、紅茶をすすった。先ほどよりも、幾分苦く感じる。
「やっぱり、お姉さんがあんな風になったから……?」
 少し語気を弱めて問うてくるケーテ。イェンはそれに苦笑を浮かべると、肯定とも否定ともとりかねる首の動きを見せる。
「本来、魔術学の研究は、研究そのもの単体としてあるべきだ。権謀術数の道具として、私利私欲の対価として使われるべきではない……そういう意味では、彼らばかりが間違っているとも言い切れない」
「イェン……」
 ケーテの眉根が寄る。イェンは溜め息を吐くと、肩をすくめた。
「と、理屈ではそう思うが。やはり割り切れない部分はある。私はシスコンだったからな」
「……それを彼女の前で言うのもどうなのよ」
 彼女の眉根は戻らなかった。もう一度肩をすくめ、イェンは空になったカップをテーブルに置く。
「馳走になったな。そろそろリアが戻ってくるかもしれん」
 席を立つイェンに、ケーテは苦笑する。
「パパも大変ね」
「お前も経験するか?」
「そのときはパパよろしく」
 互いの軽口。そして、そのまま別れも告げずに背を向ける。それすらも昔通りで、イェンはなんとなく微笑を漏らし……
「イェン様ぁ〜……」
 医院の前で大量の野菜を抱えるリアの姿に、膝から崩れ落ちたのだった。


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