第一章 邂逅と胎動と



 家に帰って、イェンは居間のソファに深く腰掛けた。身体がものすごく疲れている。
(まぁ、原因ははっきりしているが……な)
 ふぅ、とため息をつく。
 『原因』は、そんなイェンの胸中を知ってか知らずか今は箒を持ってパタパタと走り回っている。
(まぁ……もう少しすれば使えるようになるだろう)
 今の段階では掃除すればするほど後の手間が増えている状態だが、それでも最初の頃に比べたらその進歩は著しい。最初の頃は、明らかな反逆の意思でもあるかのように箒と雑巾で家を散らかして廻ったものだ。
「わ? わわわわわわわわっ!?」
 どさどさどさどさっ!!
「……はぁ」
 イェンはもはや癖になった溜息を一つ。重い腰を上げて、リアがおたおたしている本棚の前へと歩いていった。
「なにを慌てている。落ちたら元に戻せばいいだけだろう」
「あ……え……は、はいっ!」
 イェンの言葉に、リアは慌てて地面に散乱している本を集め始めた。と、そのうちの一冊から、一枚の紙が飛び出してきた。
「あれ……? なんでしょう?」
 リアの拾い上げた紙をイェンも一緒に覗き込む。そこには、一人の女性の顔が描かれていた。切れ長の目に、こざっぱりとしたショートヘア。しかしどこか優しげで、あどけなさも見え隠れしている女性。年の頃なら十七、八といったところか。紙面の端の方に記してある日付は今からおよそ五年ほど前のものだ。
 その絵を見て、イェンは複雑な顔をする。
「ふむ……こんなものがまだあったのだな」
「あの……イェンさま? この方は……?」
 おずおずとリアが尋ねてくる。
「ああ、これは……そうだな。私のパートナーだった女だ……懐かしいな」
 イェンはゆっくりと目を閉じた。

 ルランディア学院といえば、この大陸にその名を知らぬものはいないといわれるほどの有名な学院である。法、医、政治、神学から魔術学、教養、建築学と、ありとあらゆる知識を網羅し、大陸の最高学府の名をほしいままにしている学び舎。その学院の魔術学部にイェンはかつて籍を置いていた。
 魔術師といってもちちんぷいぷいでもアブラカタブラでもなく、要は物に宿る魔力を抽出して主に薬剤などに利用するものだ。マンドラゴラから秘薬を作るという簡単なものから、物体を変化させて金属を作り出すという、いわゆる『錬金』と呼ばれる分野までをカバーする、ある意味変わり者の集まり。
 そこでイェンは、唯一の肉親である姉と写真の少女――ケーテ=ハイニヒェンと一緒に応用魔術学を専攻していた。特にケーテとは、席を同じくして学んだこともあって、印象も鮮明だ。姉のほうはというと、同じく応用魔術学を研究していたのだが、在学中一度として講義に出たことはない。それにはちゃんとした理由があったのだが……。
 ケーテは、ルランディアに入学してイェンが最初に親しくなった人間だった。そして、唯一の友人でもあった。もともとぶっきらぼうなイェンを孤立から護ったのはケーテの明るさであったし、ケーテの行き過ぎたお節介を御するのは常にイェンの仕事だった。
 そして、そこに恋愛感情があったかどうか、今は定かではないが、二人は関係を持つに至った。
 もっとも、夜逃げ同然にルランディアを出て以来、ケーテとの関係も切れてしまっていた。今はどこでなにをしているかすら分からない。

「イェン様?」
「あ、ああ……なんだ?」
 リアの言葉で、イェンは我に返った。そんなイェンの様子に、リアはぶっと頬を膨らませながら抗議の視線をぶつける。そんな視線を避けるように顔を横に向けながらイェンは、ごまかすように、
「これから私は自室で休む。なにか問題が発生したら私のところに来ること」
 とだけ言い捨てて、そそくさと居間を後にした。

 書斎の机に腰掛け、適当に書棚から出した本を見るでもなく眺めながら、イェンはぼそりと呟いた。
「ふぅ……ケーテ、か。今はなにをしているのだろうな……」
 考えても分かるはずもないが、イェンはしみじみと思う。あれから、随分と時が経った。普通にいけば、もう学院を卒業している頃だろう。
「まぁ……私には関係のないことだな」
 思考を打ち切って、本に集中する。久しぶりに見る『魔術概論』、イェンには簡単すぎる内容だが、暇つぶしに読むにはちょうど良い。
 こん、こん……。
 突然、部屋の扉がノックされる。しかし、イェンは活字を追うのに夢中なため、そちらを見ることすらしない。
「ああ、鍵は開いている。勝手に入れ」
 言いながら、イェンは疑問に思う。今までノックなどしたこともなかったのに、リアにどういった心変わりがあったのだろうか。
「随分、オープンになったものね。私、こんなにすんなり部屋に入れてもらえたことなんて今までに一度もなかったわよ?」
 しかし、返ってきた言葉は彼の予想していた声ではなかった。イェンは慌てて顔を上げる。そこに立っていたのは、彼が予想していたリアではなく……。
「久しぶりね、イェン」
「お前は……ケーテか?」
 あの紙片に書かれていた少女……それがそのまま成長した女性だった。その人物――ケーテ=ハイニヒェンはにこっと笑い、文机の近くまでやってきた。
「ひどいわね、私の顔も忘れてしまったの?」
「何で、ここに……?」
「足で」
 しれっと言ってのけるケーテ。そんな彼女の様子にイェンは頭を抱えながら、
「……違う。どうして、ここに来たんだと聞いているんだ」
「そんなこと、分かってるわよ」
「質問に答えろ。おおかた、学院から……」
「ふふ、短気なのは相変わらずね……。別にあなたを追ってきたわけじゃないわよ、今の私は学院とは何の関係もないしね」
 イェンの言葉を遮って、ケーテは簡潔に告げる。
「なら、なぜ?」
「この街はいい街ね。一通りのものが揃っているし、魔術師も冷遇されない。確かに、あなたが根城にするのもよく分かるわ。でもね、よく調べると足りないものが一つあるわ。なんだか分かる?」
 逆にケーテはイェンに質問する。その顔は童女のように無垢な笑顔だ。試されるイェンの方はただその態度に苛々とするだけだが。
「そんなもの……私には関係のないことだな」
「関係ないことはないわ。あなたも、どんなに卓越した人間だとはいっても所詮は人間だもの」
「いい加減にしないか! 私は別にお前と謎かけをして遊ぶだけの暇は持ち合わせていない!」
 ばん、と机を叩きイェンが叫ぶ。しかし、そんな彼の様子を気にした風もなくケーテは懐からごそごそと包みを取り出し、イェンに握らせた。
「高血圧は寿命を縮めるわよ?……これが、答えよ。まぁ、私の問いへの答えなんて、考えてもいなかったみたいだけれど」
 イェンは黙って包みを開く。そこには、小さな丸薬が三十ばかり詰まっていた。この町に来てから、一度として見たことのない『薬剤』という代物。
「……そうか。ここは無医村だったな」
「村、というには大きすぎるようだけれど……まぁ、そんなところね。街の南にこの度医院を開くことになりました、ケーテ=ハイニヒェンと申します。以後お見知りおきを」
 型どおりの挨拶をして、クックと笑うケーテ。イェンも苦笑しながら、差し出された手を握る。彼女の手は、学院にいたときに比べて多少武骨になったような印象を受けた。
「そういえば……イェン、あなたいつの間に甲斐性が身についたのかしら?」
「ん? 何のことだ?」
「誤魔化さないでよ。あのメイド、あなたが雇っているんでしょう?」
「……ああ、彼女のことか」
 言いながら、イェンは頭を掻いた。頭の中で多少の逡巡がある。ケーテはまず間違いなく、ホムンクルスという事物を知っている。それが禁忌であることも、そしてそれをイェンが手に入れるに至った理由も。さらに、彼女の名前を告げた時、ケーテはどんな顔をするだろう。
「ケーテ、お前……この町に来たからには私の館にしょっちゅう遊びに来るつもりだな?」
「当然ね。どう見ても町の皆さん健康そうだし……正直、補助金の額をもう少し増やしてもらわないと一日三食すらおぼつかなさそうね」
 それは、食べ物をたかりに来るという宣言に他ならないが、イェンは意図的に無視する。これ以上自ら心労を抱え込む必要もないだろう。ただでさえ苦労性なのがここ最近浮き彫りになってきてるのだ。
「なら、隠していてもいずればれてしまうことだろうから、お前には本当のことを告げておこう」


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