第一章 邂逅と胎動と



 ホムンクルスのリアが、空気の下で暮らすようになって既に一月が経とうとしていた。リアへの日常生活指導に追われていたイェンも、ようやく自分の時間を取り戻しつつある、そんなある時、彼はリアを外へ出すことに決めた。
 リアは家の中のことも大体そつなくできるようになった(しかし、設定のミスか生来のドジであった)ので、大丈夫であろうとイェンは考えた。それに、彼女が作られた本来の「目的」から言っても、いつまでも家の中に閉じ込めるのは違う。
「リア、外へ出るぞ」
「はい、イェン様」
 最初はたどたどしかったリアの口調も、今は比べ物に成らないほど流暢になっている。言語、思考系列が不安材料であっただけに、イェンの安心も一入である。

 そもそも、本来のホムンクルスはその活動範囲を水槽より外には広げられない。純粋な知識の塊として作られているそれは、外界の空気に耐えられないほどに純粋なのだ。
 リアという存在はその前提を大きく逸脱している。その穢れた外界への耐性の代わりに失ったものは、本来のホムンクルスとしての、世界樹の樹にも勝る知識だった。イェンの目指す「パートナーとしての存在」には、世界の成り立ちから延々と語れる口より、この大地にしっかり立てる二本の足が必要だったからだ。
「イェン様、何を考えていらっしゃるんですか?」
「ん、ああ……いや、なんでもない」
 考え事をしていて不意をつかれたイェンは、若干慌てながらも何事もなかった風を装う。
「いつも、何でもないって言いますよね、イェンさ……きゃっ」
 言いながら、リアは豪快に顔から地面に激突した。受身を取ることもなく、躓いた足を支点に見事なまでの円弧を描く。ここ一ヶ月の彼女の動向を見ていてわかったが、彼女は何もないところでも……否、何もないところでこそよく転ぶ。
「……大地にしっかり立てる二本の足というのは訂正だな……」
「え? 何か言いました?」
「なんでもない」
「ほら、また言いましたっ」
 起き上がったリアの服を、イェンはパンパンとはたいてやる。
「そういえば、今日出た理由を言ってなかったな」
「はい?」
「今日は、お前に買い物を教えてやろうと思ってな」
「買い物……ですか?」
「ああ。買い物とはどういうものか、ということは理解しているな?」
「……はいっ、大丈夫ですっ!」
「……今の一瞬の間は何だ?」
「いえ! 私、きっと大丈夫です」
 いや、きっと駄目だろう……言いかけたが、無駄だと考え直し止めた。そこをいちいち正すよりも、やることがある。というか、そこに言及しても益体がない。
「簡単に言うと、物を手に入れるための取引だ。具体的には今日、私のやることを見ていればいい」
 習うより慣れさせたほうが早かろう、イェンにはそういう思惑があった。
「はい、分かりましたあああ、あららららっ!?」
 気合十分、とばかりリアはガッツポーズを決めてみせ……再び地面とキスをした。
「よほど地面が好きと見えるな」
 もはや呆れる事すら通り越し、淡々と言うイェンに、リアは涙目で顔を上げた。
「わざとじゃないんですよぅ……」
「わざとやっていたらそれはそれで怖いぞ」
 イェンは溜息をつきながらリアを助け起こしてやった。

「ここが町ですか……人がいっぱいですね」
「あ、ああ」
 勇んで来たはいいのだが、ただでさえ変わり者で通っているイェンが女を連れて館から下りてきたということで、二人は周囲の視線を集めまくっていた。もともと、ここの町の人間は流言飛語が大好きな人種だ。
「みんな、こっちを見てますね」
「ふ、ふふふ……気にしなくていい、というか気にするな。気にしたら負けだ」
 イェンの目は半分泳いでいた。明日の町の井戸端会議は絶対耳に入れるまい、イェンはそう誓う。
(こ、これは……早く用事を済ませて帰ったほうがよさそうだ。耐えられそうにない……私が)
 イェンは早足で、懇意にしている店まで歩いた。リアもそれに若干遅れてついてくる。その様子が、さらに周囲の視線を集め、その視線を避けるためにさらに早足になるイェン。
 結局、目的の店につくころには半ば走っているような状態だった。
「お、いらっしゃい」
「ぜぇ、ぜぇ……ひ、久しいな」
 荒くなった呼吸を整えながら、店主の挨拶に答えるイェン。店主は、イェンの後方についてきた人影を見止めると、にやりと人の良さそうな(イェンにとっては人の悪そうな)笑みを作った。
「しばらく見ないと思ったら……ようやく先生にも春が来なさったか」
「なっ、何を言ってる」
「いやいや……イェンさんも朴念仁かと思っていたら、こりゃなかなか隅に置けませんな」
 店主の言葉に、慌ててイェンは言い返した。しかし、店主はニヤニヤしながらイェンとリアを見比べるばかり。
「わ、私は別に……」
「いやー、言わなくても分かってるってイェンさん。私は何でも分かってますとも。ええ、理解してますよ」
「私と店主との理解の間に大きな相違があるような気がするのは私だけか!?」
「あのー……イェン様?」
 リアの放った一言に、店主は我が意を得たりと手を打った。
「様! 様付けですか! いや、先生もお好きですなぁ」
 店主の様子に、イェンは額に手を当てながら、言った。
「リア……少し黙っていてくれないか」
「はい……」
 言ったイェンが不機嫌だと判断したリアは、素直に口をつぐんだ。なおも言い争いを続ける二人を尻目にそっとドアを開けると、彼女は表へと出て行った。しかし、そのことには誰も気がつかない。

 通りを一人で歩きながら、リアはため息をついた。
(はぁ……私、ダメですね。いつも失敗しちゃう……)
 前述の通り、リアはかなりのドジであり、自身もそれを気にしていた。彼女は、自分がイェンのアシスタントとして生を受けたことを知っており、その責務を果たせない自分が歯がゆかった。
「おや、あんたはさっきの……」
 佇むリアに一人の中年女性が話しかける。見るからに気さくそうなそのおばちゃんは、リアの風体を一瞥してから、笑顔で続けた。
「あんた、丘の上の魔術師さんのとこにいるのかい?」
「え、えっと……はい」
「そうかいそうかい」
 リアの言葉に、おばちゃんは頷いた。そして、その巨体の後ろに隠し持っていたものをリアに差し出す。
「はいこれ、持ってきな。あの魔術師さん、どうせろくなもん食べてないんだろう。あの人に言っても、どうせ聞きゃしないしねぇ。あんたが気をつけてやらないとだめだよ?」
「え……あ……はい……」
 それは、両手いっぱいの野菜だった。リアはその細い腕で、それを受け取る。
「ああ、それならうちからもだな」
 両手いっぱいの肉をどさどさと渡す肉屋の主人。
「じゃあうちからも」
 両手いっぱいの魚。
「それなら……」
 両手いっぱいの花。
 五分が過ぎる頃には、リアは恐らく自重に匹敵するほど大量の手荷物を持たされることとなった。ふらふらになりながらも、街の人に対する感謝の気持ちからそれを取り落とすようなことはできず、一歩また一歩と慎重にリアは歩き出した。

 一方その頃、イェンは通りをせわしなく眺めていた。いつの間にやら姿を消したリア。未だに世間の常識をわきまえているとは思えない彼女を野放しにする、その事態にかなり本気で焦っていた。
「まったく……どこへ行ったのだ……!?」
 しかし、先ほどの店主とのやり取りを考えると、道行く人にリアの行方をたずねるわけにはいかない。そんなことをすれば、これ以上どんな誤解をこの身に被ることか。イェンは身震いをした。
 結局、あてどなく通りを歩きながら探す以外、彼に取るべき方法はなかった。
 と、その時、通りの向こうに不思議なものが見えた。それは、この街で売っている食材やらなにやらが束になって街中を放浪している様子だった。
「……私は、夢を見ているのか……?」
 しかも、その物体はふらふらと左右にふれながら、少しずつこちらに近づいてきているような気がする。イェンは少々圧倒されて、一歩後退する。しかし、その足はそれ以上下がることはなかった。
「イェンさまぁ……たすけてぇ……」
 その物体が自分の名前を呼んでいた。イェンは戸惑う。もともと、人との接点があまりない彼のこと、斯様な異形の知り合いなど思いつこうはずもなかった。
「イェンさまぁ……どこですかぁ……?」
 しかし、その物体が発する声は、どこかで聞いたことがあった。彼が探していた人物、リアの声に相違ない。イェンは慌てて彼女に走り寄った。
 リアは主人の姿を確認するなり、涙目になった。
「イェンさまぁ〜、探しましたよぉぉ……」
 少々恨みがましく、リアはイェンに言った。そんな彼女に、イェンはまず何はともあれ問いかけた。
「リア……いったいどこでなにをしていたんだ?」
 その後のリアの弁によると、手に持てないほどの荷物をもらったあと、リアは先ほどの店へ戻ったらしい。しかし、既にイェンは店を出てリアを探し始めていたところだった。出て行こうとするリアに店主は、イェンに渡し忘れた、と言って薬草一式を問題の荷物の上に載せた。
 この世に生を受けたホムンクルスが初めて人に負の感情を抱いた瞬間だったようだ。
「そうか、行き違いになっていたのか……」
 イェンはしみじみと言うと、彼女から荷物を半分引き受けたのだった。
「ところで……よく金が足りたものだな。そんなに多くは渡していなかったはずだが」
 彼がリアに持たせた金額は、あくまで買い物の練習ということで野菜二、三品が買える程度のものだったはずだ。しかし、リアは器用に荷物を片手で持ち、もう片方の手でポケットから驚くべきものを取り出した。
「イェン様から初めてもらったものですから……私の宝物ですっ♪」
 彼女が取り出した硬貨は、イェンが渡した時の状態から何一つ変わっていなかった。一枚も使わずこれだけの品物を手に入れることができたことを褒めるべきか、ただでこれほどのものをくれてやった商店の営業者に猛省を促すべきか、イェンは真剣に悩むこととなった。
 しかし、ただ一つだけ確実なこともある。
「また……一から教えなければならんのか……」
 イェンは今日何度目になるか分からない、深い溜息をついたのだった。


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