序章 生命の呼び声


 彼の目の前で、今、人が神に近づいた。
 溶液の入った円柱型の水槽の中に生まれた新しい命を一瞥し、彼はそう確信する。
 筒一杯に広がる金色の髪の海と、その中に眠る女性の肢体を、彼は自分の手によって一から作り上げた。ホムンクルス、人の形を人の手によって作り上げるその行為は、神に対する反逆だという理由で禁忌として扱われたものだった。
 白衣を着た彼――イェン=オーリックはもう一度、そのヒトガタを見つめた。極限まで人に近いそれは、確かに彼が自分で作ったものだ。
 ヒトガタがゆっくりと目を開いた。その瞳に徐々に光が宿る。
「…………」
 口をパクパクと開くが、音は発せられない。代わりに彼女の口からはいくつかの気泡が発せられた。羊水を伝って泡が上方に浮かび、水面に触れて消える。
 イェンは水槽に手を触れた。
「私が、見えるか?」
 イェンの言葉に、彼女はもう一度言葉を紡ごうと試みる。しかし、それが無駄だと分かると彼女は静かに一度だけ頷いた。
 ひんやりとしたガラスの胎盤――ホムンクルスである彼女にはそうだろう――に触りながら、イェンも頷く。そして、彼女の目を見つめ彼はまた一言告げた。
「体は動かせるか?」
 彼女は手を開き、また握る。そして、狭い彼女の活動空間の中で、出来うる限り大きく体を動かして反応した。
「あ……う……」
 こぽこぽと口から気泡を吐きながら、彼女の唇からわずかに音が紡がれた。言葉というには程遠いが、声帯を震わせて発生させた音。その音に、イェンは満足そうに頷いた。
「お前は、自分が何者であるか、認識しているか?」
 はっきりと、一つ一つ言葉を区切ってイェンが問う。しばしの間をおいて、試験管の中の少女は頷いた。そして、幾分たどたどしいながらも彼女は言葉を発した。
「は……い……」
「ふむ」
 未だガラス管に手を触れたまま、イェンは一度目を閉じた。
「ま……す……た……?」
 目を閉じ、黙して語らぬ主人を前に、ホムンクルスが少し当惑した声をあげた。たったこれだけの僅かな時間に、彼女はすでに感情までも手に入れていたのだ。
 イェンは、彼女の言葉に目を開き、そして言った。
「今から、羊水を抜く。お前は、この大地にその足で立つことができるか?」
「……わかりません……」
「……そうだろうな」
 彼女の答えに苦笑しながら、イェンは水槽の底についた栓を勢いよく引き抜いた。そこから、一気に生命の水があふれ落ち、薄暗い地下室の床を侵食していく。
 それに伴って、水槽の水位が下がり、海草のように広がった金色が下へ下へと向かった。
 そして、すべての水が容器から消え去ったとき、濡れて体に張りついた金髪は、さながら金の繭だとイェンは思った。
 と、繭の中から、女性が這い出てきた。自重に震え喘ぎながらしっかりと四肢で地面をつかんでいる。イェンは、ようやく彼女に生が宿ったと確信した。
「動けるようだな?」
「はい……マスター……」
 濡れた地面に跪き、ホムンクルスはまっすぐにイェンを見ながら答えた。
「息苦しくはないか?」
「はい……」
「体に違和感はないか?」
「はい」
「そうか。特に問題はないようだな」
 言いながらイェンは、突然あることに気づいた。彼女は、もう「生まれた」のだ。だとするならば。彼女には、必要なものがある。
「お前に、名前をつけてやらないとな」
「名前……?」
「そうだ。お前を示す、お前だけの名前をな」
 名前、名前と、ホムンクルスは口の中で噛み締めるようにつぶやく。まるでその言葉を身体に馴染ませるかのように。そして、マスターに再び顔を向け、言った。
「……それだったら……リア、と」
「リア……?」
 瞳を閉じて、ホムンクルスはイェンに答える。
「はい……マスターが、私の前でよくつぶやいていた言葉……とても、素敵な響きで」
「…………」
 彼女の言葉に、しかしイェンは顔を若干歪めた。額にこぶしを当て、しばらく考える。沈黙が辺りを支配し、聞こえるのは地下室を流れる空気の音ばかり。が、その沈黙を破ったのもやはりイェンだった。
「ふむ、そうだな。ならば、お前は今日からリア、だ」
 ホムンクルス――リアは主人の言葉ににっこりと微笑んだ。
「はい、マスター……私は、リアです」
 人が神に成り代わった偉業を前に、イェンはようやく人心地ついたようだった。薄暗い地下室の床に、服が濡れるのもかまわず座り込むと天を仰いだ。
(そうか……私は、ついに成し遂げたのか)
 そのまま、しばらく黒ずんだ天井に向かって笑う。今までの研究の努力や過程が、連続スライドのように脳裏をよぎっていった。
 笑いながらへたり込むイェンに、リアが近づく。
「マスター……マスターのお名前は?」
 その言葉に、イェンはようやく意識をリアに戻した。
「ああ、そうだな。私は、イェン……イェン=オーリックという」
「いぇんいぇん……様ですか?」
 しばらく、時が止まった。
「……イェン、だ。一回でいい」
 人が神に成り代わった偉業を前に、イェンは一抹の不安を覚えるのだった。


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